SSブログ

石原吉郎書附け 一 点燭 (その2) [評論 等]





 石原氏にとって、この「暗黒」に比せられるべきもの

は、シベリアに於ける強制収容所体験であった。石原氏

は、「もうひとつのあとがきーー詩へ駆立てたもの」の

の中でこう書いている。



    「もしあなたが人間であるなら、私は人間ではな

   い。/もし私が人間であるなら、あなたは人間では

   ない。」



   これは、私の友人が強制収容所で取調べを受けた

   さいの、取調官に対する彼の最後の発言である。そ

   の後彼は死に、その言葉だけが重苦しく私のなかに

   残った。この言葉は挑発でも、抗議でもない。あり

   のままの事実の承認である。そして私が詩を書くよ

   うになってからも、この言葉は私の中に生きつづ

   け、やがて「敵」という、不可解な発想を私に生ん

   だ。私たちはおそらく、対峙が始まるや否や、その

   一方が自動的に人間でなくなるような、そしてその

   選別が全くの偶然であるような、そのような関係が

   不断に拡大再生産される一種の日常性ともいうべき

   ものの中に今も生きている。そして私を唐突に詩へ

   駆立てたものは、まさにこのような日常性であった

   ということができる。



 ここに述べられたもののうち、「その後彼は死に、そ

の言葉だけが重苦しく私のなかに残った」という言葉

は、「点燭」中の「たとえ点燭とともに ひとつの暗黒

が終ろうとも われらに終りを告げたのは 点燭であっ

て暗黒でなく」という言葉に微妙に響きあい通じあう。

 「彼」は死に、その言葉だけが残ったという事実は、

その言葉を通して「彼」の死と、「彼」のかつての生の

ありようを確めることを意味しており、そうすることに

よって、「私」のなかに残った言葉の「重苦し」さとそ

の言葉の持つ本当の意味を確認し、明らめることに通じ

ている。確認し明らめるにつれて、この言葉が、「挑発

でも、抗議でもない。ありのままの事実の承認である」

ことがはっきりしてくるだろう。そして「事実の承認で

ある」限り、この言葉は石原氏の心の内でいかなる意味

の忖託をも許されずにありのままの姿で絶えず繰り返さ

れねばならない。あたかも点燭をして「いかなる意味の

端緒ともなすことなく……その位置で佇立させ」ること

によって点燭の一回性、自律性を重んじ、そうして燭そ

れ自身の「意味」を獲得するが如くに。











以下、その3へ続きます。



タグ:強制収容所
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。