石原吉郎書附け 一 点燭 (その4) [評論 等]
私はこの小文の初めに、詩的覚醒の時点ですでに、石
原氏が詩を通して明らかにすべき世界は、明確に予感さ
れ自覚されていたとみてさしつかえない、と書いたが、
それはつまり、「見たもの」がすでにはっきりと石原氏
の内にあった、詩との邂逅以前にすでに石原氏の内に詩
的表現を与えられるべき世界は整えられていた、という
ことなのである。「この見たもの」をいかにして「見た
とい」うか、つまり「見たもの」を事実に即していかに
的確に表現し形象化するか、この難問を解決するものと
してやがて石原氏の前に詩がたち現われていたのであっ
った。詩との出会いが、石原氏にとってほとんど決定的、
根源的な意味合いを持つゆえんである。
したがって石原氏にとって、なぜ詩を書かねばならな
いか、何を詩に表現しようとしているのであるかーー即
ち詩を書く意味が最も明らかな形で見えもし、自覚され
もしていたのは、詩的覚醒の始原点(詩的点燭の時点)
であったと言えるだろう。その後の石原氏の詩作、『石
原吉郎詩集』に収められた作品のすべてが、この詩的覚
醒の始原点への絶えざる遡行と確認という姿で営まれて
いる。そして遡行と確認が同時に発展であり、新たな発
見、出発につながるという点に、石原詩のきわだった特
徴をみることができる。
以下、ニの(その1)に続きます。
2015-07-02 20:23
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