石原吉郎書附け 二 最もよき私自身 (その1) [評論 等]
点燭によって石原氏は何を見、何に気づいたか。それ
は「対峙が始まるや否や、その一方が自動的に人間でな
くなるような……そのような関係が不断に拡大再生産さ
れる一種の日常性」であり、しかも自分がその中に「今
も生きている」という事実、そして「最もよき私自身」
が見失なわれてしまったということの発見であった。
「〈すなわち最もよき人びとは帰っては来なかった〉。
〈夜と霧〉の冒頭へフランクルがさし挿んだこの言葉
を、かつて疼くような思いで読んだ。あるいは、こうい
うこともできるであろう。〈最もよき私自身も帰っては
こなかった〉と。今なお私が、異常なまでにシベリヤに
執着する理由は、ただひとつそのことによる。(以下略)」
(詩集「サンチョ・パンサの帰郷」あとがき)
帰ってこなかった「最もよき私自身」或いは「最もよ
き人びと」の奪回・回復こそが、石原詩を貫ぬく基本テ
ーマである。詩的覚醒の始源点(詩的点燭の時点)への
絶えざる遡行と確認が行なわれるのも、その時点が「直
接に人間としてうずくまる場所」であったからであり、
「そのような場所でじかに自分自身と肩をふれあった記
憶が、〈人間であった〉という、私にとってかけがえの
ない出来事の内容」(同詩集あとがき)を持っているから
である。
以下、ニのその2へ続きます。
2015-07-03 20:08
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