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石原吉郎書附け 二 最もよき私自身 (その2) [評論 等]





 それでは「最もよき私自身」「最もよき人びと」と

は、いかなる人間なのか。例えばここに「耳鳴りのう

た」という優れた作品がある。



  おれが忘れて来た男は

  たとえば耳鳴りが好きだ

  耳鳴りのなかの たとえば

  小さな岬が好きだ

  火縄のようにいぶる匂いが好きで

  空はいつでも その男の

  こちら側にある

  風のように星がざわめく胸

  勲章のようにおれを恥じる男

  おれに耳鳴りがはじまるとき

  そのとき不意に

  その男がはじまる

  はるかに麦はその髪へ鳴り

  彼は しっかりと

  あたりを見まわすのだ

  おれが忘れて来た男は

  たとえば剥製の驢馬が好きだ

  銅羅のような落日が好きだ

  苔へ背なかをひき会わすように

  おれを未来へひき会わす男

  (略)

  おれの耳穴はうたうがいい

  虚妄の耳鳴りのそのむこうで

  それでも やさしく

  立ちつづける塔を

  いまでも しっかりと

  信じているのは

  おれが忘れて来た

  その男なのだ



 耳鳴りがはじめるとき、不意にはじまる「おれが忘れ

て来た男」のような人間こそが、石原氏の言う「最もよ

き私自身」「最もよき人びと」であるだろう。そしてこ

の「男」は、例えば、「夕やけのなかの尖塔のように/

怒りはその額にかがやいているが/とおく十字路を/ふ

りかえる目のなかには/颱風が やさしく/とまどって

いるよう」な「そんなおとこ」(「最後の敵」)や、「おれが

聞いているのは/たしかに木がらしだが/ときおりやつ

が立ちどまっては/いつまでも思いだせずにいるのも/

おれのことにちがいない」という「やつ」(「岬と木がら

し」)や、「そこだけが けものの/腹のようにあたたか

く/手ばなしの影ばかりが/せつなくおりかさなって/

いるあたりで/背なかあわせの 奇妙な/にくしみのあ

いだで/たしかに さびしいと/いったやつ」(「さびし

いと いま」)や、「きみは数しれぬ麦が/いっせいにしご

かれて/やがてひとすじの声となるところから/あるき

出すことができる」という「きみ」(「伝説」)や、「風琴

と朝を愛した/朝が風琴へたたまれては/やがて出口を

あらそって/いっせいに声となるさまを/このうえもな

く愛した」そのような人間(「風琴と朝」)たちに通じ、彼

らはみな「耳鳴りの男」と血縁関係を持つところの人間

たちなのだ。そしてこの人間たちは、『もしあなたが人

間であるなら、私は人間ではない。』と言うような、「対

峙」関係で人間を決して考えない人間たちであり、もし

あなたが人間であるなら、私も人間である、と言いきれ

るだろう人間たちなのだ。あるいはこうも言えるだろう。











以下、二のその3に続きます。




  
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