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石原吉郎書附け 二 最もよき私自身 (その3) [評論 等]





  いっぽんのその麦を

  すべて苛酷な日のための

  その証しとしなさい

  植物であるまえに

  炎であったから

  穀物であるまえに

  勇気であったから

  上昇であるまえに

  決意であったから

  そうしてなによりも

  収穫であるまえに

  祈りであったから

                   (「麦」部分)



 つまり、植物であるまえに炎であったもの、穀物であ

るまえに勇気であったもの、上昇のまえに決意であった

もの、収穫であるまえに祈りであったもの……要するに

対峙の前に在った人間、そもそも対峙を必要とせず、し

たがって、対峙が始まるやそのような「日常性」の世界

からたちどころに消え去らざるを得ない人間たちなのだ。

 彼らは、決して対峙しあういずれの側の人間でもな

い。『もしあなたが人間であるなら……云々』に於ける

「あなた」でも「私」でもいずれでもない。「あなた」や

「私」である前の人間(・・)なのだ。したがって「あなた」の

内にも「私」の内にも生きている、或いは生きてきた人

間なのである。対峙はこの人間を忘れた時に始まる。私

は先にこの部分にふれて、「あなた」も「私」もいずれ

も石原氏自身の内に住む者たちだ、と書いたが、もし石

原氏の内に両者の対峙のみが存在したのであったなら

ば、それは「ただ『敵』という不可解な発想を生んだ」

だけであり、詩人石原氏は現われてきようがなかった。

 石原氏の苦渋は、「『敵』という不可解な発想」をさえ

生ましめた「じかに不条理である場所」に「直接に人間

としてうずくま」ることによって、この「対峙」とたた

かい、これを止揚し、そうすることによって、「自由に未

来を想いえがくこと」にあったのである。そして〈最も

よき私自身も帰ってこなかった〉という自覚に達するこ

とにあった。

 ところで〈最もよき私自身も帰ってこなかった〉とい

う自覚に達した石原氏は、あの対峙しあう「あなた」に

も「私」にも属さない。ましてや「『敵』という不可解

な発想」を生ましめた石原氏にも属さない。石原氏の

内の「あなた」や「私」である前のもの、即ち最もよき

石原氏自身ーー詩人石原氏であったのだ。

 そして最もよき石原氏自身の出現が、シベリアに於け

る強制収容事件という、最も烈しい対峙状況の中からも

たらされたものであった点に石原氏の不幸が、「詩を書

く者が、その詩の発祥をあきらかに名指しうる……不

幸」(『石原吉郎詩集』あとがき」)が存し、そしてそれが石

原氏の詩を韜晦たらしめていると共に、自分をサンチョ

・パンサに擬せしめることを通じて、その作品独自の

批評性をもたらしたのであった。


 












以下、三のその1へ続きます。

強調の点がつけれなかった箇所があります。



タグ:自覚 止揚 対峙
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