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『黄金文明』『大阪文学学校詩集』  (その6) [評論 等]





 「言葉は自由に動き、氾濫するようでい

て、決して徒らに消費されるなどということ

はない。不てい(・・・)で巨大なエネルギーが埋めら

れていて、それは爆発寸前のところで凝縮さ

れている。(略)現在の日本の詩があらゆる

方向から照し出されているからである。」と、

野間宏氏が書いているが、私もそのように思

う。こういうエネルギーが正当に蓄積される

ことによって、日本の詩は新しいものになっ

ていくにちがいない。この詩集を通読し、と

りわけ次のような作品に私は感銘した。坂東

寿子の「うれんあきんど」藤原久子「文学学

校」立山澄夫「チンダルレ」林英治郎「鉋と

ぎ」辻口亮子「朝」江森勝治「森の宮・夏」

谷原吉子「音」森沢友日子「いもうと」広田

瑞穂「野に立つ」井崎外枝子「釜の底の米」

小西真知子「春について」茶谷洋子「とらわ

れた鳩」綿高一郎「゛生について”の断章」

大木恭子「ひき手」山中好子「夏」河野里子

「日記」三宅由美子「愛」等々。

 特に私は綿高一郎の「゛生について”の断

章」を紹介しておきたい。



殺されるため牛がやってきた。

遠い土地から

帯状に拡がり閉じる闇

浮かんで消え 消えて現われ 現われて浮ぶ

光りの破片のなかをとおって

花の匂いを肩に乗せ牛たち

一枚の布のように太陽に揺られ

ひとつの寂しい思想として立ちつくす。

その眼が見ている都会の空

都会の谷間からたちのぼり、逃げまどい轟き

 わたる蛮声を。



殺されるために牛がやってきた。

木材を吊り下げてくるクレーンの下

鉄塔が空を支えている貨物駅に

そして牛ははじめておのれの原始の声を知る

故郷を呼んでみるが声はもう戻らない

その悲しみに鳴いて、声は一層遠くなるのを

 知る

叫びつかれてトラックの上に乗せられた牛の

腹に汗が凝固し生が光る。

走り去る一匹の牛と眼が会ったと

けれど牛は見ていない

牛の視点はどこにもないのだ

流れるかれの映像ににはおれも風景のひとつ

 にすぎない

 

殺されるために牛がやってきた。

遠くから昔から、かれらの無垢な眼を見ていると

ぼくはふと思ってしまう

遠いところに

もときたところに

かれらはかえるのだ

草原をわたって列んでかえるのだと。



殺されるために牛がやってきた。

雨が体をふるわせて降っている夜に

貨物列車でさむざむと牛がやってきた

さまざまな都会のネオンを衣装に

牛が見ている

雨が落ちるのを。その音を。

沈黙のなかで語る

沈黙のなかで倒れる。

沈黙のなかで血のりに染まる

沈黙のなかで遠く旅立つ

夜、回転する。













 「詩学」 1968(S43)年 12月号



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