詩集『幻影哀歌』など (その8) [評論 等]
決して歌ったことのない小鳥が
煙になって
逃げた
化粧水のつめたい朝
消えてゆくものは歌わなくても
美しい
<朝の底で>
どこにもいないわたしを
探せば探すほど
どこにもいないわたしは
疲れすぎていなくなる
<誰もいない海辺で>
『死』がわたしのことを
必死になって考えている時
『生』が空の深みから
糸を垂れて
黙って釣りをしていたりする
<兎が仕組んだ罠>
きみとあたしの周りは
きみとあたしが知らない秘密でいっぱい
だけど この黙っている林檎の中で
ナイフが光っているのを
ふたりは知っている
この秘密だけ 誰も知らない
<人生はセンタク>
このような新鮮な表現が、詩集のそこここ
にみられ、これらの詩句は詩を読む楽しさを
私たちに味わわせてくれる。しかしこれらの
詩句は詩全体の中から独立したもののように
浮び上ってきわだち、単独に生きているよう
な点がある。仮に今後これらの詩句の持つ新
鮮さが色褪せたとしたならば、日登氏の手元
に残るものは何だろうか。「不安」「絶望」「死」
「不在」「無価値な空間」「無意味な価値」「不
毛」「不可能」「形而上学の遊び」といったよ
うな言葉がそこここに使われ、詩句としての
生命力を得ている。しかしこれらは、極言す
れば日登氏の感覚やイメージを表現するため
のいわば表現上の技法として生かされている
のであって、「不安」なり「絶望」なり「死」
なり「形而上学」的世界なりの、日登氏に於
ける内実をきりひらき呈示するものとはなっ
ていない。豊かな感性を創りはぐくむところ
の内的世界の深化を通して感性の豊かさ柔軟
さを更にどう発展させていくかが(<朝の
底で><兎が仕組んだ罠><ブックエンドご
っこ>等はそのことに成功した作品だ)これ
からの日登氏の課題であるだろう。私は、日
登氏がこぼれた水の新鮮さをいつまでも持ち
つづけ、その底に世界の深さを湛えていくよ
うにと願うものである。
「詩学」 1969(S44)年 5月号より
2015-11-08 20:42
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