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米田和夫詩集 緒方利雄詩集   (その4) [評論 等]





 政治的、社会的ないしは形而上的その他い

ずれのものであれ、一定の観念を設定し、そ

れに依拠して詩を発想する態度は、詩的営為

の上からいって誤りであると私は考える。設

定された観念は、設定されたものとしてとど

まる限り(つまり肉体化されたものとなって

いない限り)、われわれの詩的想像力を規制

し、詩表現の自由を拘束する。われわれの感

受性や想像力は観念によって裏切られ、とど

のつまり作品は観念先行のひからびたものに

なる。そうした作品の内実が、うわべの気負

いやことごとしさとはうらはらな低俗な感情

によって蝕ばまれていることを私は知ってい

い。自己検証や、依拠する思想・観念に対す

る厳しい批評がなく、造形に対する厳格さが

みられない。往々にして自己放棄さえが見ら

れる。

 米田氏の詩はそれらと無縁である。それら

に無縁であることによって、自分の思想を手

の中にしっかりとにぎっていると言うことが

できる。

 右に引用した以外の作品では、「旅をする

とは」「海辺にて」「貝がらと人」「鴎」「フ

ィナーレ」等を私は評価する。ただし私は冒

頭に引用した「天下る垂線を がっちりと受

けとめる」という詩句中の「がっちりと」と

いう表現などは評価することができない。ま

た例えば次のような捉え方や表現をも評価す

ることができない。「BOD……PH……の

叫びも/スマートな犯人たちの パトロール

も むなしく/変り果てた川は/拒絶の渦を

 まきおこしながら/非情なサイクルを/た

だ 滔滔と流れてゆくばかり」(現代の川」

部分)。つまりここでは米田氏は自分を踏み

はずし、「スマートな犯人」とか「拒絶の渦」

とか「非情なサイクル」とかいった安易な表

現に自己をあずけてしまっているからであ

る。米田氏はやはり「いつまでも/祖国をす

てない人々のように」「母なる海を 去ろう

としない」(「鴎」)鴎たち同様、自己を去らず

自己の資格を大事にはぐくみ、そのことによ

って「一そうきびしく/一そう力強く」「未

来を目指し」て行くべきだろう。より新しい

成果を私は待つ。












以下、その5へ続きます。



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