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米田和夫詩集 緒方利雄詩集   (その7) [評論 等]





   桃の花



 桃の花が散る

 はらはら散っている

 少女は駈け寄って

 いっしんに受けとめる

 少女等は

 校庭に集まって

 昼過ぎの汽車に乗る

 都会の紡績に

 買われて

 いくのだ

 少女等は

 地上に色褪せる落花のような

 世の中を

 知らない

 その汚れたからくりの真中に

 巻き込まれようとすることに

 気付かぬ

 それを

 知るようになる

 やがて知るようになるだろう

 やがて頬っぺたから血が失せ

 お白いをぬりたくって

 生きようとする

 無心に散っている

 花びら

 いっしんに駈け廻る

 少女等

 都会の紡績に買われて行く





 無心に遊ぶ少女らの可憐さが美しくうたわ

れ、やがてその無心さが哀しみによって色ど

られていかざるを得ない、そういう社会の

「からくり」に対して、緒方氏は静かにしか

し精いっぱいにたち向っている。美しいもの

を美しいものとして真直ぐに見る目を緒方氏

は持っている。美しいものを汚す「からくり」

を見分け、それに立ち向かう性根をも持ってい

る。中山範鷹氏は跋の中でこう書いている。

「社会の中の一人として又現業職場の一労働

者としての自覚の中から生れているとは云え

ないにしろ、彼の郷土の風習に対する批判の

目は働きながら詩を書く人達だけが持ってい

るものだと思う。今後彼には何んと云って

も、彼の周囲の人達から始まり現業職場の人

達そして多くの労働者に絶対の信頼感の中か

ら彼の抒情による作品世界を展開して戴き

たいものだ。」ーーそうだろうか。一部文脈に

不文明な点があるがそれはそれとして、私は

この意見に賛成出来ない。緒方氏の作品が

「社会の中の一人として現業職場の一労働者

としての自覚の中から生れているとは云えな

い」とは決して言えないのである。むしろ

逆であろう。引用が部分的であったが上記引用

の二作品がそのことを証拠だてている。労働

者に対する「絶対の信頼感」云々に関して言

うならば、「絶対の信頼感」と称するものに

緒方氏が無批判な仕方で埋没してしまわず、

自己の主体をかかげた結果が、氏の詩をきわ

だったものにしたとみるべきだろう。更に言

えば、自己の主体を見失わないことを通じて

しか、人間に対する信頼感は得られない。

「己れの弱さを知り/知り尽くすものの強さ

……云々」(「つゆぐさ」)と緒方氏自身うた

っているが、そういう強さを緒方氏はこれか

らも掲げていくがいいと思う。

 そういう強さを見失い「政治主義」に走

った氏の一部の作品は皮相なものとなり、現

実批判の面でもひ弱なものになっている。

「料亭で末席に座し 飲んでいた」組合幹部

(と想像される)について、「鬼畜とののし

り 振り上げたこぶしは芝居だったのか(略)

/俺たちは売られたのだ/彼は にたり哄っ

て 寝返りをうったのだ」(「不審」)とうた

っているものなどがその例である。寝返りを

うった人間の心中なり弱さが洞察されていな

い。それ故に本当の批判がそこに出てきてい

ない。したがってこれらの表現は詩の言葉と

なっていない。











 「詩学」 1969(S44)年 6月号



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