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否定的な感想   (その4) [評論 等]





   松浦直己詩集『影の部分のある研究』(国

文社)

 私は、松浦氏の詩集にも幾つかの疑問を持っている。



     エピローグ



 空と大地にむれつどう

 異形の鳥たち

 谺に声もかき消され

 矛盾と反転の星のもと

 自塞の極をめぐる

 内なる世界の

 怨嗟の崖と愁嘆の霧のむこう

 あの扉の喉をおし開き

 わたしは屹立しながら

 さらに さらに

 季節はずれの存在の雷鳴に

 打ちすえられていくだろう



 題名の示す通り、この作品は本詩集のエピ

ローグとして書かれている。必ずしも集中の

代表作ではないが、私が氏の作品に感じる幾

つかの疑問点を、集約的に持っているとみら

れるので引用した。「季節はずれの存在の雷

鳴に/打ちすえられて」いこうとする決意の

ほどはわかるのだが、それを裏づける作者の

魂の声が伝わってこない。結局決意の概念的

な表明だけに終って、詩的感動がよびさまさ

れない。「矛盾と反転の星のもと」という表

現も私はよく理解できないし、「自塞の極」

に立たされた作者の姿も、実感として私には

伝わってこない。松浦氏の「内なる世界」に、

「怨嗟」や「愁嘆」が氏をして「屹立」せし

めるほどにあるのだとしたら、そしてそれを

十全に表現しようとするならば、作品がこの

ように概念的なものになるはずはないのであ

る。

 松浦氏の発想には一定のパターンがあり、

そのパターンに依拠しすぎる為に、作品が窮

屈なものになってしまっている。ポエジーが

のびのびと拡り溢れ出るということがなく、

パターンによっておさえつけられてしまって

いる。従って、かなり独断的な意味を言葉に

もたせすぎ、イメージに明晰さと鮮明さが欠け

る結果になる。



 同じ空の下で

 風が向きをかえると

 秘事のように

 孤独というやつは

 無に形体をあたえるから

 聖者のように

 鼻毛をひきぬき

 ヴァイタリスをなすって

 俺は翔んだ



    (「穿たれる時間」冒頭)



 沈黙の親密さを信じるな

 何故ならこのとき言葉の陰謀と跳梁がはじまるからである

 何よりもぼくは親しき者の淫らな悲鳴が好きなので

 まず己れを逆さに吊るそう

 今日こそジャズと恋人とコーヒーで

 言葉を発情させて星々の形で空高く噴き上げよう

 と思いながら 

 夜には妻の鎖につながれて眠った」



  (デ・プロファンディス」冒頭)



 夜にはH・リードの詩篇など読み

 個性的に妻をリードして



  (「似ていない自画像」部分」)



 ……こう

いう発想や表現に私は疑問を持つ。ここにあ

る安易な諷刺性や諧謔性ないしアイロニーを

認めるわけにはいかない。引用は部分的であ

り、従って、一斑を以て全豹を卜してはなら

ないが、しかしこれらは、松浦氏の精神を物

の本質にむかわせるよりも、本質から眼をそ

らさせる役割を果している。












以下、その5へ続きます。



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