木 [詩]
木
去 る 夏
わたしの枝に思い出の蔭を茂らせた夏が去る
わたしの思い出はひんやりした奥深さだけを残して
留守になる
わたしは思い出を脱がねばならぬ
葉が散ってしまってもしばらくは
思い出の深さが
もとのひろがりの姿で
虚数のわたしを空の中にしんと立たせている
しかしわたしは
わたしの肌にすがすがしい秋の澄んだ気配の中に
音もなく蔭を脱ぐように 虚数の思い出を脱ぐ
わたしは自分をとりもどす
すると思い出の繁みのむこうに隠れていた秋
からりとした秋の奥ゆきが見えてくる
さわやかな空気に触れて
わたしのひんやりした眼に
新しい視界がひらけてくる
わたしはまったく新しい世界の中に立つ少年のように
思い出を脱いだもとの素裸の姿ですらりと背をのばして立つ
やがて
そうしてひらけた新しい視界のはずれを
小さな姿で現われ
しかしだんだんと深い空の中に姿を鮮かにして
わたしにむかって近づいてくる旅人が見える
変 身
木が立っている 身動きもせずに
空の深さにそこだけいっそう深さを重ねるように
木陰をひろげ
やがて木は不意に変身する
木陰もゆらさずに
空の深みで静かに別の木と入れかわる
するとそこに誰の眼にもふれたことのない空が現われ
鳥も入っていったことのない青さがひろがり
今迄そこにあった眼に見える木と
同じ姿で重なりながら
年齢によってとらえることも 年輪に刻むこともできな
い時間の中に
生えつずけてきた一本の木が 痛みのように
ふるえもせずにしんと立っている
悲 し み
どこかで銃声がする
すべての木々が話しをやめる
けれども空には何も見えない
一羽の鳥の影もない
銃声が残していった谺もかすかになり
やがてそれは記憶がとぎれるように
静寂の中に消える
驚いたあとの空はいっそう青ざめている
木はもとの静けさをとりもどして立つ
すると木の繁みから
一羽の小鳥が
血ぬれたくちばしをして落ちてくる
「詩学」 S35年 5月号
2015-05-28 20:52
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