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足跡 [詩]





   足跡


  Ⅰ



 何回となく其処から出て行かねばならなかった。其処

は出発点だったから。すべてが其処から始まった。外に

雨が降っている日、雨の中に姿を消して遠く出かけた。

そしてまた雨と一緒に帰ってきた。或る時は天気、或る

時は夕焼けと一緒に帰ってきた。何回となくもどってき

たが、すぐまた出て行かねばならなかった。どんなに運

んでも肩の上の重みは運びきれなかったから。そのくり

かえしを続けて、その者はだんだん消えてなくなった。

窓から、のぞいた顔が消えるように。今は地層の底から

掘り出された道のほとりに、所有者のない足跡が二つ、

揃えて脱ぎ捨てたゾウリのように残されているだけ、其

処に立ちそして其処から出入りした者はいない。



   Ⅱ


 今ではもう、其処には誰もいない。雨に洗われた青空

が足跡のすぐ上に遊びに来ている。しかし青空をかすか

に震わせていたそよ風もしんと止み、空が一層青さを深

めると、二つの足跡の上に人の形をした何者かが立って

いるのが見えてくる。かつて足跡を印した者が其処に立

っていたと同じように。すべての気配をそっと消してこ

ぼれもせずに立っている。彼はずっと立ちつづけてきた

のだ。足跡が其処に印された時から、足跡が地層に埋も

れ地上から消えた時も、二つの眼を開いて大地の底に同

じ姿で立っていたのだ。雨が降る以前から立っており、

青空をせいせいと洗って雨が通り過ぎた後も立っていた。

わたしにはだんだん見えてくる。何もかもはっきりと見

えてくる。

 足跡の上に二本の脚が立っている。そしてさらにその

上の方に、青空の中に消し忘れた電燈のように、悲しげ

に少し小首をかしげ青ざめた一つの顔が浮かんでいる。か

つて其処に立っていた者の顔がそうであったように。顔

は二つの眼を開いている。まばたくことを忘れた水溜り

のように深々と。二つの眼はさまざまなものを映してい

る。さまざまな空、濃い色の空、薄い色の空や、さまざ

まな光景を、きのうの出来事のように鮮かに映している。

 わたしはその眼が映している一本の道を見る。眼がた

どったようにわたしもまたその道をたどる。道の上を奴

隷達が行き来している。奴隷達は肩に重い荷をになって

いる。足跡の上に立っていた者がになったと同じよう

に。強い日ざしが彼らをてりつけている。彼らは汗を流

している。彼らの喉は渇き、彼らの肩は息をきっている。

やせた胸、その下に充たされぬ空腹の原っぱが拡がって

いる。彼らと同じようにやせた彼らの影が道にくっきり

と倒れている。道のはずれに砂漠が拡がっている。砂漠

のむこうに運河が見える。運河に船が浮んでいる。岸辺

にも奴隷達が列をなしている。彼らの肩にひもがくい入

っている。彼らが一列になって動く。それにつれて船が

ゆっくり動く。幾人もの彼らの背中に鞭がふりおろされ

る。その度に彼らの背中がもだえる。彼らの顔が悲痛に

ゆがんでいる。足跡の上の顔がゆがんでいると同じよう

に。ころがり倒れたまま、もう動かぬ奴隷達がいる。

 ずっと遠いはずれにごみごみとかたまっている家並が

わたしに見えてくる。狭い路、きたない路。路に一匹の

犬の影もない。井戸のまわりに女達が見える。女たちは

いっしんに悲しみを洗濯している。そのようにしてゆす

がれた心が、夕闇の中で白くひるがえっている。坂の上

に夕日が止っており、夕暮は音もなく坂をくだり始めて

いる。それにつれて次第に長くなってゆく自分の影を曳

きずって、一人の女が坂の上で声をあげている。その女

が運河のほとりに倒れていた奴隷の身内の者であること

をわたしは知っている。泣き声はつめたい空に響いて、

いつまでも消えないでいる。



   Ⅲ



 掘り出された道のほとりに、脱ぎ捨てられたゾウリの

ように二つの足跡が残っている。誰がその足跡をわたし

達に残していったのか、その者の名をわたしは知らぬ。

そしてその足跡を地層の底から掘り出した者が誰かもわ

たしは知らない。もうその足跡の上には誰もいないから。

ただわたしは知っている。かつて足跡を印した者が其処

に立っていたと同じ姿で、今も苦痛がじっと立ちつづけ

ていることを。深淵が立っているように立っていること

そしていつまでもいつまでも肩の重荷をおろせずにいる

ことを。そのため今だに自分の足跡を消せずにいること

を。肩の荷をおろしてくれる者を待っているように。も

う耐えられぬというように。

 かつて其処に足跡を印した者が、その上でそうしたよ

うに、時としてそれは足跡の上で立ったまま泣いている。














 「詩学」 1961(S36)年 6月号



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