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詩集『幻影哀歌』など   (その7) [評論 等]





    絵画



 朝は冷たい苺を

 わたしの中に落した

 紫色の立ちくらみをしながら

 テーブルに沈みこんだレモンと

 お皿に埋まっている魚のことを思う



 おお 優しさはなんと重いのだろう

 このレモンや魚や

 そしてまた足元に横たわっている眩暈など

 それらのための絵具の匂いは

 少しも腐敗していない
 
 きみのキャンバスが暗ければ暗いほど

 その絵の中にわたしがはっきりと映る



 朝の苺よ

 冷たいままで

 わたしの中に残りなさい



 

 この作品は日登氏の詩世界を最もよく表わ

しているものの一つである。この詩人の感受

性の豊かさと、ポエジイの澄明さ新鮮さ優し

さといったものが充分に感じとれる。しかし

同時に、美しさや優しさの底にひそむ一種の

脆さやあぶなさをも予感させる。私がここで

言う脆さ・あぶなさとは、「朝の苺」が「冷

いままで」いつまで日登氏の「中に残り」つ

ずけるだろうかということにかかわって出て

くる危惧である。現在日登氏は柔軟な感受性

を持っている。そして日登氏の持つ柔軟さが

世界を自分の素肌でじかに捉え、特定の観念

の限定を受けないことによって得られたもの

であることは前述した。(特定の観念の限定

を受けずに得られたものこそが、実は最も明

析にその詩人の観念世界を表わすものである

ということを承知した上で私は言う)その点

に日登氏独自の美点もあるのだが、その美点

は同時に、感受性の柔軟さが褪せると共に凋

落してしまいかねない脆さ・あぶなさをも孕

んでいる。美には本来そういうあぶなさに遊

ぶ性質があるわけであり、脆さや失せ易さと

の微妙な均衡の上に、かろうじて保たれるも

のだが、日登氏の場合、その妙なる均衡をど

こまで保っていけるか、正直に言ってこの詩

集だけでは何とも言えないし、私には予測す

ることができない。











以下、その8へ続きます。



タグ: 絵画 日登

詩集『幻影哀歌』など   (その6) [評論 等]





 日登氏は自分の感受性をたよりにして、自

己の内に流れこんでくるすべてのものを濾過

し、現像液にひたしてゆすぎ出し定着させて

いる。選別し判別するいとまもなく、魂が捉

えた一切のものを自分の流儀でうたっている

ようである。自己の世界と外界とのけじめが

なく、両者はわかちがたく統一され、共に交

感しあっており、したがって外界の事象をう

たうことがそのまま自己をうたうことにつな

がり、自己をうたうことがそのまま外界の事

象をうたうことになる、という具合である。

 「女の体はガラスのようで/家々のむこう

の消えかかった夕焼けが/彼女の血ででもあ

るかのように滲んでいる」<恋の終り>

 あたかもこの詩句は、右にみた日登氏の詩

世界の特徴を端的に語っているようである。

そして内の世界と外の世界との絶えざる交感

と交流が、日登氏の詩に透明さと翳りを与え

ていると共に、言うに言われぬ優しさと、優

しさの底にひそむ一種の憂愁や不在感をも与

えている。











以下、その7へ続きます。



詩集『幻影哀歌』など   (その5) [評論 等]





 日登敬子『正しく泣けない』(地球社刊)四

周の世界に眼をひらき、手さぐりしながら自

分の「生」を確認しはじめた者の持つ精神の

柔軟さと、新鮮さがこの詩集には見られる。

自分の素肌でじかに捉えられた世界は、特定

の観念によって限定されることなく、感受さ

れたままの透明な姿に於て定着されている。

自分や自分をとりまく世界の奥深さについて

そして私たちの傍に常に在り続ける万象の本

質について、改めて思いをめぐらし、その思

いを詩という手だてで表現しようと試みはじ

めた当初、詩人の誰もが持ったであろう柔軟

な感受性と精神が、この詩集にはこぼれた水

のような新鮮さで湛えられている。こぼれた

水はいまだ方円いずれの器にも従わず、澄ん

だ水溜りとなって夏の日ざしや木々を映し、

のぞきこむ人の願を店の方に映し、時に自分

の血や不在をのぞかせながら、不安と期待に

かすかにふるえているようである。













以下、その6へ続きます。






詩集『幻影哀歌』など   (その4) [評論 等]





    紫陽花



  アジサイの色の変わるわけは幽レイが中にいて

 着物をきかえるからだと聴いて私は その花の傍

 へ寄ったが 明け方とか雨とか声が洩れていた

 ことによると痴呆を卑しまれて死んだ娘が 叶え

 られなかった希みを この中で果しているのでは

 ないか

              (以下略)



 「娘」に寄せる岡田氏の心根は優しく、物

悲しく痛恨と美しさにみちている。だが私に

とってこの詩集は難解であった。難解さのい

われは私の理解力の不足にもあるのだろうけ

れど、しかしそればかりではない。岡田氏自

身にとっては自明なことが、他の者にとって

は必ずしも自明ではない、というそれこそ自

明の事実を、岡田氏がややもすると忘れてし

まい、いわば自問自答の形で作品を展開して

いることにもよるだろう。私は岡田氏の詩世

界の深みへおりていこうと努めた。しかし或

る点まで行くと、作品を理解する手がかりは

消されてしまっている。私は岡田氏がより十

全に自己の詩世界を表現するように望む。飛

躍と断絶は詩表現に於ては尊重されねばなら

ぬ。しかしそれは読む者の魂をめざめさせ、

今迄見えなかった世界にむけて我々の眼をひ

らかせるものではなくてはならない。私は岡

田氏の詩の語り口・うたい口に独特の魅力を

感じる。それは長い修練の結果得られたもの

だ。しかし他面、岡田氏は自分の語り口に頼

ってしまっている点があるように私には思わ

れる。語り口のために詩世界が犠牲にされて

しまっている点がなくはない。こういう感想

は私の無理解にもとずくものであろうか。し

かし在りのままの自分をさらけ出す以外、私

は批評の手だてはない。










以下、その5へ続きます。



詩集『幻影哀歌』など   (その3) [評論 等]





 ところで岡田氏の幻影は独特の在り方をし

ている。「幻の方から 水死を離れた霊がこ

うして肉体化したものです」「死に切れない

霊が<幻>となってその幻が肉体を作るらし

い」という詩句が至るところにみられるのだ

が、これらの詩句によってもわかるように、

岡田氏の幻影は、肉体が幻と化したのではな

く、逆に、幻が肉体を備えて現われてくる、

つまり幻の肉体化という形をとっている。こ

のことは、「始めからある肉体なぞ、醜くて

見られはしない」<螢>という認識とかよい

あう。「幻」をさぐることは、岡田氏にあっ

ては肉体を確認するための最も確かな手だて

なのであり、実存を認識するための有効な道

なのだろう。「幻」は、岡田氏にあっては人

間の美しさと優しさの象徴なのであり、岡田

氏の想念が生んだところの、「侘し」くはあ

るけれどもしかしそうあるべき理想の「人格

なのだ。

 「始めからある肉体」を過信し、それ故に

「痴呆」な肉体を与えられた娘を卑しむ世俗

一般に対して、岡田氏は背をむけ、そうする

ことによって人間批評を試みている。始めか

らある肉体を過信している人間こそ、「患っ

た人格」の持ち主と言うべきである、と岡田

氏は主張しているのであり、そのような「人

格の崩れ落ち」たところから、岡田氏は自己

の詩世界を出発させている。













以下、その4へ続きます。



詩集『幻影哀歌』など   (その2) [評論 等]





 岡田氏は、この詩集の序言とでも言うべき

「発言」と題する文章の中でこう言ってい

る。「何十年もふしあわせでその痛苦の身の

上を 人目に曝したまま卑しまれ続けた人た

ちは どのようにして死ぬまでの間を生きぬ

けたことだろう 生れ出たことがなんとして

も残念であったと 泣いて私に訴えた人の哀

歌を とかく不実に陥りやすい自身に錐揉ん

で私も その歌に和した その人に加えて

できるものなら母胎へ帰りたい まだ運命も

嗅ぎつけないその中で しあわせな短時間の

生涯を作りたいと あるいはこのままで<幻

になりその幻を肉体化して 塔とも紫陽花と

も螢ブクロとも同化したその 姿や汁液に摺

りつかった異形で ふしあわせを世へあばき

出したいとも語っていた(以下略)」

 ここに発言されていることがらは、詩集

『幻影哀歌』のモチーフを簡潔に語ってい

る。と共に一貫したテーマをも語っている。

つまりこの詩集で岡田氏は「泣いて私に訴え

た人」について、及びその「人」にかかわる

「哀歌」を終始うたっているのであり、「そ

の歌に和す」ことによって、「しあわせな短

時間の生涯を作りたいと願っているのであ

る。「生れ出たことがなんとしても残念であ

った」とする認識は、言うまでもなく、生れ

出たことが幸せであったと言えるような充溢

した生を願う祈念の深さから生じたものであ

る。つまりは「しあわせな生涯を」「短時間」

でもいいから作りたいという願望にもとずい

ている。そしてそういう願望は、「何十年も

ふしあわせでその痛苦の身の上を人目に曝し

たまま卑しまれ続けた」ことによって生じき

たったものであるが、同時にまた「生」の充

溢と完璧を願う祈念の高さが、何十年ものふ

しあわせや痛苦をもたらしたとも言えるので

ある。岡田氏は自己の実存の姿を「泣いて私

に訴えた人」にたくしてうたい、うたうこと

によって自己の実在を確認しようとしてい

る。

 その「人」とは誰なのか。それは「痴呆を

卑しまれて死んだ娘」であり、「脳をいため

てしまった女」であり、「患った人格の崩れ

落ちたような」「侘しい人格」の持ち主であ

る。そしてこの「娘」や「女」は幻影となっ

て、ほとんど総ての作品に出没している。或

る時は塔となり、紫陽花となり螢ブクロとな

り梨の実となって現われる。岡田氏がこれほ

どまでに執し、繰り返しうたっている「娘」

は実在した人間にちがいない。けれども事実

の詮索は無用のことである。「見ると娘は二

重の姿になっていた。その表面は痴呆症で内

部には、同じ痴呆の私の分身の、さびしい人

格がひらいていた」<野反湖>という詩句を

引くまでもなく、この詩集に出没する「娘」

は、とりもなおさず岡田氏自身なのであり、

岡田氏の自己認識の投影されたものである。











以下、その3へ続きます。



タグ:序言 発言

詩集『幻影哀歌』など   (その1) [評論 等]





   詩集『幻影哀歌』など



 詩集『幻影哀歌』(歴程社刊)は岡田刀水

士氏の何冊目の詩集であろうか。私は正確に

は知らないが、前詩集とこの詩集との間には

永い歳月が介在しているはずである。それは

数年というようなものではなく、十数年こと

によったら二十数年といったような歳月であ

るはずである。しかし、そういう永い歳月の

間に書きためた作品を全体にわたって見渡し

た上で、取捨選択し収録するという方法をこ

の詩集はとっていない。散文詩形式で書かれ

た作品だけ、しかも一貫したテーマのものだ

けが選ばれている。

 岡田氏から手紙をもらい、私が岡田氏を高

崎にたずねたのはもう十何年も前のことにな

ってしまった。その折、岡田氏は若輩の私に

実に細かな字で書きこんだ詩稿を見せて、卒

直な意見を聞かせてほしいと言った。私の意

見によって自分の詩を省みようという態度が

見え、ことによると私の評言をもとに自分の

詩の全面的な書き直しをさえしようとする程

の熱心さが感じられた。私は何度も作品を読

み、私なりの感想を持ったが、岡田氏の真摯

な態度と、私を一人前扱いした対応の仕方に

感銘した私は、何ごとかを言おうと思って考

えれば考える程、自分として言うべきことは

何もないように思われてきた。その時見せら

れた作品もこの詩集には収められていない。

考えてみれば、何ごとかを言おうと考えれば

考えるだけ、何も言うことがなくなってしま

った私のていたらくは、今も変りがないよう

に思われる。岡田氏の作品に限らず総ての詩

集に対する場合にそうである。私には人の作

品を評する資格のないことがいよいよはっき

りしてきている。











以下、その2へ続きます。

   「詩学」 1969(S44)年 5月号



片岡文雄詩集『悪霊』など   (その7) [評論 等]





 寺門氏は遊女の姿に人間実存の一つの典型

を見ようとしている。寺門氏の詩には総じて

遊女に対するいつくしみと哀しみの想いがた

だよっているが、しかしそれは遊女という境

涯に生きた女たちに対する世俗的な憐憫の情

とは質的に異なっている。遊女を通して洞察

された人間の「生」あるいは実存に対する根

源的な思考から生じきたったもののようであ

る。

 私には寺門氏 「遊女」は、寺門氏自身の

情念と思念の権化であるように思われる。集

中に書き連ねられた「遊女」の劇は、とりも

なおさず寺門氏の心中の劇に他ならず、彼の

心中に明滅する情念と思念の姿に他ならな

い。「遊女」は寺門氏に去来するいわばオル

フォイスの如きものであろうか。そういう意

味では、「遊女」は寺門氏の思念ないし情念

を表白するための一つの衣装であり、一つの

方便であり沪過装置であると言うことが出来

るだろう。寺門氏は一貫して「遊女」をうた

い続けているが、しかし彼の詩のすべてが

「遊女」に直接触発されて発想されたもので

はないように思われる。むしろ寺門氏は、彼

が見、感受し、発想したテーマを形象化する

ための具体的な手だてとして、「遊女」とい

う媒体ないし鋳型を選びとってくる。つまる

ところ、「遊女」とは寺門氏のポエジイを整

え精錬する為のノミであり鉋であり、ノミや

鉋によって整えられた衣装であると言えるだ

ろう。衣装は時により所によりきらびやかな

ものから簡素なものへ、破れたものから繕わ

れたものへと、様々に変化するが、衣装の変

化ほどには衣装の内にある実体は変化し深化

してはいないのではないか、という疑念をも

私は持っている。一作一作と書きつぐにつれ

て「遊女」の劇が深められていくということ

がなく、同じ次元に立ちつづけながら衣装だ

けを多様に変化させている、という点がある

ように思われる。「遊女」という衣装を脱ぎ

捨てることも、今の寺門氏には必要なことで

はないかと思う。すでに遊女の類型のきざし

が私には感じとられる。











 「詩学」 1969(S44)年 4月号



片岡文雄詩集『悪霊』など   (その6) [評論 等]





 寺門仁詩集『続遊女』(風社刊)

 詩集『遊女』に続く著者の第二詩集。収録詩数十三篇。



   非人湯女



湯女は死んでからは

山に入り山蛭などと 枯葉の間にいた

やさしい姿をしながら

どうしてこんなに強く

暗さと汚れとを求めるのだろう

彼女のいた処はいつも

幸わせの下の不幸な場所だった

湯女は

恋人が欲しかった

山から降りて隅田川べりを捜したこともある

乞食にまで近づいたこともあった

荷風散人に会い

理想と思う男について話してみたが

微笑するばかりで答えてはくれなかった

いつか郊外へ出ていた

人家に押された田んぼの土が

滅びの歌を歌って心を唆られた

湯女はどっぷりした溝に緋鯉に変身して入り

嘆き流れる土の霊たちと泳ぎまわった

              (以下略)



 寺門氏の詩は一様に長く、紙数の関係もあ

って完全な形で再録することが出来ないのを

残念に思う。引用した作品は必ずしも集中の

代表作というわけではないが、ひとまず寺門

氏の作品傾向をうかがい知る手だてとなるだ

ろう。引用した作品と「薔薇娼婦」以外はす

べて「文楽遊女」「祠遊女」「深傷遊女」と

いう具合に、題名そのものにも遊女の名が記

されている。寺門氏の遊女はほとんどが死ん

だり変身したりしている。「霊」となって此

岸と彼岸を行き来しながら、今もなお成仏で

きずにさまよいつづけている。「自分のため

に/妻子まで餓えさせた男のことなど思いだ

し……後悔で燃え」、更には魂が「浄められ

故郷へ/入っていける」ことを願いながら、

「奇怪な男が現れ」ると、その男の「眼の

光に引き付けられ」て「むらむらと別な情熱

が湧き起こって」(「文楽遊女」)きてしま

う遊女たちなのである。寺門氏は彼岸という

いわばネガティブな世界をさまよう遊女の姿

を描くことによって、此岸を描き、この世の

「暗さと汚れ」を描き、そしてそこに生きる

われわれの実存の姿を捉えようとしている。

「彼女のいた処はいつも/幸わせの下の不幸

な場所」であったにもかかわらず、「死んで

から」もなお「強く/暗さと汚れとを求める

」湯女の姿に、とりもなおさず、寺門氏はわ

れわれの生きる姿を見出している。「やさし

い姿をしながら」と書いているが、「やさし

い」性根を持っているからこそ、死してなお

暗さと汚れにみちた此岸を求める結果になる

のであり、そしてそういう執念が実は湯女の

姿を「やさしく」したと言えるだろう。











以下、その7へ続きます。



片岡文雄詩集『悪霊』など   (その5) [評論 等]





 片岡の詩のうたい口には独特のものがあ

り、言葉はやわらかくつややかである。



 ほおお

 ほおおっと

 やみにささ竹をかざすわたしの分身に

 ほうう

 ほうううほと

 ひくくともる声がしのんでいる

 <ほうたるはとれたか

 <ほうたるはどれほどとれたか

 とすがりつく声がひそんでいる

 あかるむこともはばかられ

 子孫のつばきのなかで

 おおきなからだをねがえりさせるひとは

 てんめつするいのちの岸に

 つきないおのれの血をたしかめる

 声になる



                (「ほたる抄」)



 この作品などは、片岡のうたい口の特徴を

最もよく示している。<わたし>に執する片

岡の態度は、彼の表現・うたい口にも一貫し

ているとみることができる。



 眠りのなかで

 とも綱を解いた少年はわたしであった

 わたしはおもいきり泣く

 泣きわめく仲間にわたしは泣く

 ふなべりにとりついて泣く

 波にむかって泣く

 (略)

 解かれた舟を

 つれもどす手だては断たれた

 消えたわたしの少年の叫びはそのままだ。

 

         (「夜をめぐる三章」)



 片岡の詩には言いようのないせつなさがま

つわりついている。彼のせつなさはどこから

くるのだろうか。おそらくわたし>をさぐ

り、血脈をさかのぼり「生」の実相に次第に

深入りしていく彼の、素裸の魂からこみあげ

てくるのだろう。ともあれ片岡は「消えたわ

たしの少年の」「そのまま」に放置されてい

る「叫び」をもやがて明らかにしていくだろ

う。











以下、その6に続きます。

 詩は詰めて書かれてあるのを戻しました。



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