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否定的な感想   (その2) [評論 等]





 横田英子詩集『蟹の道』(再現社)

 この詩集にも右にみた観念的・遊戯性が著

しく現れている。総じて表現に饒舌さが目

立ち、言葉が空転してしまっている。



 私たちは習慣づけられた

 太陽に背けない回転は

 歯車と歯車が、しっかりかみ合うこともなく

 脂汗をにじませての語らいもなく

 追い求める会話の鋭い痛みさえ

 幻覚に変えようとする……

    (略)



 これは「季節から季節へ」と題する作品のだ

第五連であり、私には文意もよくわからない

のだが、私が言いたいのは、「追い求める……

鋭い痛みさえ」「幻覚に変えようとする」態

度が、ほかならぬ作者自身の詩作態度にある

のではないかということである。横田氏は

「鋭い痛み」を自分の魂に感じ、それをひた

むきに「追い求め」ているのだろうか。「鋭

痛み」らしきものを「幻覚」のように作り

上げているに過ぎないように私には思える。

「のたうちまわる苦悶の形相」とか「非情の

きずな」とか「恐怖の動悸」「私の冒険」「自

分の位置と闘い」「意識のいとなみ」とかい

う言葉が目につくが、これらは空疎な響きを

しか私たちにもたらさない。横田氏はこれら

の言葉を使って、社会批判なり人間批評なり

を試みようとしているのだろうが、しかし氏

が意図した批評は、初めの数行を読んだだけ

ですでに読者に見すかされてしまい、読者は

作品を読むことを通じて、自分が今迄気づか

なかった世界を新たに発見するということが

ない。



 鍵をあつめる

 人は何重もの鎧戸の中に身をすくめている

 スピードを買う 経歴を売る

 嘘を結ぶ

 野心の裏に這う狂ったさそりに

 気づかない男

 街に転がるありふれたドキュメンタリー



               (「ある消息」)



 このような表現から詩的感動はもたらされ

ない。つまるところ横田氏は、詩は批評でな

ければならないという観念で身を鎧い、その

ためにかえって物の本質をつぶさに観るこ

とを放擲してしまっているのではないだろう

か。表現は必ずしも十全ではないが、「早春

の陽がしみる」「胸の中の玉がとけるとき」

「挽歌」等の作品に見られるような、自己の

魂に忠実な態度をもっと大事にすべきであ

る。











以下、その3へ続きます。



否定的な感想   (その1) [評論 等]





   否定的な感想



 この数カ月の間に私が読んだ八、九十冊の

詩集の中には、観念的、或いは遊戯的とでも名

づけられる傾向のものが、かなり多くあっ

った。今月読んだ詩集についても同様なことが

言える。観念的傾向といっても、ここでは主

として、詩にむかう詩人の態度を問題にして

いるのであって、詩がとり扱っている主題や

世界に直接かかわらない。詩にむかう態度

に隙があり、その結果作品が拵物になってし

まっているのだが、あたかもそれを詩である

かのように錯覚し自己満足におちいっている

傾向を言うのである。私のこういう言い方は

批評家的であるかも知れず、当の詩人は誰よ

りも自分の欠陥に気づき、自分なりの仕方で

自己脱却を試みているのであろう。しかし当

人の持つ詩についての「知識」がかえって災

いし、対象にじかにむかうことを妨げ、発想

そのものを限定してしまい、詩を観念的遊戯

的なものにしてしまうということにもなりか

ねない。私たちは自分が既得したところの、

そして常々詩作のよりどころとしている詩観

ないし詩意識を、絶えず反省しつづけること

が必要なのではないか。











以下、その2へ続きます。

   「詩学」 1969(S44)年 7月号










米田和夫詩集 緒方利雄詩集   (その7) [評論 等]





   桃の花



 桃の花が散る

 はらはら散っている

 少女は駈け寄って

 いっしんに受けとめる

 少女等は

 校庭に集まって

 昼過ぎの汽車に乗る

 都会の紡績に

 買われて

 いくのだ

 少女等は

 地上に色褪せる落花のような

 世の中を

 知らない

 その汚れたからくりの真中に

 巻き込まれようとすることに

 気付かぬ

 それを

 知るようになる

 やがて知るようになるだろう

 やがて頬っぺたから血が失せ

 お白いをぬりたくって

 生きようとする

 無心に散っている

 花びら

 いっしんに駈け廻る

 少女等

 都会の紡績に買われて行く





 無心に遊ぶ少女らの可憐さが美しくうたわ

れ、やがてその無心さが哀しみによって色ど

られていかざるを得ない、そういう社会の

「からくり」に対して、緒方氏は静かにしか

し精いっぱいにたち向っている。美しいもの

を美しいものとして真直ぐに見る目を緒方氏

は持っている。美しいものを汚す「からくり」

を見分け、それに立ち向かう性根をも持ってい

る。中山範鷹氏は跋の中でこう書いている。

「社会の中の一人として又現業職場の一労働

者としての自覚の中から生れているとは云え

ないにしろ、彼の郷土の風習に対する批判の

目は働きながら詩を書く人達だけが持ってい

るものだと思う。今後彼には何んと云って

も、彼の周囲の人達から始まり現業職場の人

達そして多くの労働者に絶対の信頼感の中か

ら彼の抒情による作品世界を展開して戴き

たいものだ。」ーーそうだろうか。一部文脈に

不文明な点があるがそれはそれとして、私は

この意見に賛成出来ない。緒方氏の作品が

「社会の中の一人として現業職場の一労働者

としての自覚の中から生れているとは云えな

い」とは決して言えないのである。むしろ

逆であろう。引用が部分的であったが上記引用

の二作品がそのことを証拠だてている。労働

者に対する「絶対の信頼感」云々に関して言

うならば、「絶対の信頼感」と称するものに

緒方氏が無批判な仕方で埋没してしまわず、

自己の主体をかかげた結果が、氏の詩をきわ

だったものにしたとみるべきだろう。更に言

えば、自己の主体を見失わないことを通じて

しか、人間に対する信頼感は得られない。

「己れの弱さを知り/知り尽くすものの強さ

……云々」(「つゆぐさ」)と緒方氏自身うた

っているが、そういう強さを緒方氏はこれか

らも掲げていくがいいと思う。

 そういう強さを見失い「政治主義」に走

った氏の一部の作品は皮相なものとなり、現

実批判の面でもひ弱なものになっている。

「料亭で末席に座し 飲んでいた」組合幹部

(と想像される)について、「鬼畜とののし

り 振り上げたこぶしは芝居だったのか(略)

/俺たちは売られたのだ/彼は にたり哄っ

て 寝返りをうったのだ」(「不審」)とうた

っているものなどがその例である。寝返りを

うった人間の心中なり弱さが洞察されていな

い。それ故に本当の批判がそこに出てきてい

ない。したがってこれらの表現は詩の言葉と

なっていない。











 「詩学」 1969(S44)年 6月号



米田和夫詩集 緒方利雄詩集   (その6) [評論 等]





    仔牛を売る



 降りしぶく雨の中

 鼻面とられ しょんぼりみつめるおまえの瞳に 痩せ細るかたちで竦み立つおれは柄になく涙を拭くと云うのだ

 お神酒をちょっぴり甜める

 これは因習である 別れの因習である

 おれはおまえを引張る

 おまえを大地を踏んまえてかぶりをふる

 いやいやする 哀願する

 おれはその時火花のように貧乏を憎む



 ~(略)~



 おまえは 軈て びっしり 背を 雨にうたせて

 みどり煙る

 赫土道を

 あの櫟林から

 消える

 駅へ 向う

 おまえはふりかえり振り返る 低く 低く 唸る

 咽び泣く如く啼いて 又 振り返るのだ

 背離でもない 鬼ではないおれのこころはそれが耐えられぬ

 雨はこのまわりに冷たくざわめく

 おまえの褐色の体毛は洗らわれる 震える

 五分角の尖端が雫に 光る それが

 おれのこころを理不尽に射るのである

 卸立ての席を掛けてやろう

 おれは鼻面を寄せ いつものよう おれの懐の匂を

 嗅ぐのである



 

 紙数の関係で全篇を引用できないのが残念

だが、この作品によらず「風習3」「乾いた

季節に」「森」「冬にも」「桃の花」「雨の

師走(1)(2)」「つゆぐさ」「彼岸花」「局外者」

「問う」「夜の断章」「あじさい」等の佳作

は、総じて機関助士として又一社会人として

の生活の中で見聞し体験した事柄を、自分を

偽わらずに正直に直截にそして誠実にうたっ

ている。引用した作品に見られるせつなさや

哀しさや人間的な苦渋は、古さと新しさと

いう問題を超えた人間感情として永遠のもの

であるだろう。こういう人間感情を捨象した

ものとして「政治主義」が云々されるとした

ら、それはわれわれ人間に何物をももたらさ

ない。緒方氏の作品には「政治主義」はない

としても、「あさ晩の霜にえぐられても動じ

ない/性根」(「冬にも」)が一本通っている。

性根の強さは同時に次の詩に見られる人間的

なやさしさに通じている。









以下、その7に続きます。



タグ:仔牛を売る

米田和夫詩集 緒方利雄詩集   (その5) [評論 等]





 緒方利雄詩集『風習』

 緒方氏は「あとがき」で「現在、私の地方

性叙情詩は『国鉄詩人』では問題外として処

理さえています。労働者は社会に迎合する作

品を書いてはならないと云う、つまり政治主

義を基盤にした作品を書けと云う。現体制を

肯定しないまでも抒情詩しか書けない、それ

は私の弱みであり、苦悩でもあります。」と

書いているが、決してそんなことはないので

ある。労働者であるなしにかかわらず、詩人

はすべて「社会に迎合する作品を書いてはな

らない」のだが、しかしそのことはただちに

「政治主義を基盤とした作品」を書かなけれ

ばならない、ということにはならない。抒情

詩という場合、その質が、問題になるが、

「抒情詩しか書けない」ことは、決して自身

の「弱み」であるわけがない。自己の「弱

み」や「苦悩」を素通りして、皮相な「政治

主義」に走ることそのことこそが本当の「弱

み」なのだ。緒方氏が自己の「弱み」として

恥じているものこそが、現実をうたい貧困を

うたい地方性や「風習」や「因習」をうたっ

た氏自身の諸詩篇を、美しく力づよく輝かし

いものにしている源動力なのだ。もし本当に

「国鉄詩人」の中に「政治主義を基礎にした

作品を書け」というような風潮が存在するの

だとしたら、そういう考えは迷妄であり、迷

妄を打破することに於て緒方氏は逡巡しては

ならないだろう。私は緒方氏の作品を読んだ

上で右のことを言っているのである。











以下、その6へ続きます。

(管理人注) 雑誌では途中から緒方氏のことが米田氏と誤記されていると思いますのでこちらでは緒方氏に直しています。



米田和夫詩集 緒方利雄詩集   (その4) [評論 等]





 政治的、社会的ないしは形而上的その他い

ずれのものであれ、一定の観念を設定し、そ

れに依拠して詩を発想する態度は、詩的営為

の上からいって誤りであると私は考える。設

定された観念は、設定されたものとしてとど

まる限り(つまり肉体化されたものとなって

いない限り)、われわれの詩的想像力を規制

し、詩表現の自由を拘束する。われわれの感

受性や想像力は観念によって裏切られ、とど

のつまり作品は観念先行のひからびたものに

なる。そうした作品の内実が、うわべの気負

いやことごとしさとはうらはらな低俗な感情

によって蝕ばまれていることを私は知ってい

い。自己検証や、依拠する思想・観念に対す

る厳しい批評がなく、造形に対する厳格さが

みられない。往々にして自己放棄さえが見ら

れる。

 米田氏の詩はそれらと無縁である。それら

に無縁であることによって、自分の思想を手

の中にしっかりとにぎっていると言うことが

できる。

 右に引用した以外の作品では、「旅をする

とは」「海辺にて」「貝がらと人」「鴎」「フ

ィナーレ」等を私は評価する。ただし私は冒

頭に引用した「天下る垂線を がっちりと受

けとめる」という詩句中の「がっちりと」と

いう表現などは評価することができない。ま

た例えば次のような捉え方や表現をも評価す

ることができない。「BOD……PH……の

叫びも/スマートな犯人たちの パトロール

も むなしく/変り果てた川は/拒絶の渦を

 まきおこしながら/非情なサイクルを/た

だ 滔滔と流れてゆくばかり」(現代の川」

部分)。つまりここでは米田氏は自分を踏み

はずし、「スマートな犯人」とか「拒絶の渦」

とか「非情なサイクル」とかいった安易な表

現に自己をあずけてしまっているからであ

る。米田氏はやはり「いつまでも/祖国をす

てない人々のように」「母なる海を 去ろう

としない」(「鴎」)鴎たち同様、自己を去らず

自己の資格を大事にはぐくみ、そのことによ

って「一そうきびしく/一そう力強く」「未

来を目指し」て行くべきだろう。より新しい

成果を私は待つ。












以下、その5へ続きます。



米田和夫詩集 緒方利雄詩集   (その3) [評論 等]





 ……やがて ぼくが 地表の土に 還ったときに ぼく自身の 変身である 詩や ものたち は

 ふたたび ひそかに 語りはじめるのだ

 愛について……

 真理について……

 地球について……

 リーザ

 いま ぼくが 全身で 感じているのは

 母なる地球からの 温かい呼びかけの声

 幾億年も前の

 懐かしい子守歌

 いま ぼくの耳底に 幻聴のように ひびいてくるのは

 すでに地表の土に還った 父や母が

 遠い日 ぼくを探して呼んでいた いたわりの声

 いま ぼくの奥底を音立てて 流れてゆくのは

 少年の日 いくたびか たたずんだ 山あいの 玉のせせらぎ

 遠い銀河の流れ のように ぼくを メルヘンの世界へと運ぶ

 いま ぼくの網膜に ぼんやりと 傾むきながら 映っているのは

 北半球の一部……ぼくの生れたおとぎ話の マ半島

 ぼくの胸をえぐるのは その傍で火を噴いている ベトナムのこと



                            (部分)



 米田氏の、愛や真理や地球について或いは

ベトナムについての発言は、氏の頭の中に既

成された思想や観念から描き出されてきたも

のではない。「パラボラアンテナのように、

うつりゆくものを すべて感受」する態度、

つまりは物の本質をくもりのない魂によって

捉えようとする、本来的な詩人の態度から導

き出されてきたものである。みずみずしい感

受性と素裸の魂をよりどころとして、すべて

のものを真実の姿において捉えようとする生

き方が、彼にベトナムを考えさせ、彼の眼を

政治にむけさせたのであり、ひいてはそれら

に対する彼の対し方をユニークなものにした

のである。











以下、その4に続きます。



米田和夫詩集 緒方利雄詩集   (その2) [評論 等]





 米田和夫詩集『流れる時のなかで』

 この詩集を私はもっと早くに論評すべきで

あった。実はその用意もしたのであったが、

前から予定していた詩書に紙幅を費して果せ

ずにいた。私は気がかりであった。



   ポプラ



ポプラは、いつも 天空を突き刺している

冷たく鋭い針としてではなく

ひとり抜け出る ためらい と

優しく柔軟なバネを秘めながら……

予言者の思慮深さで 遠い地平を みはるかし

パラボナアンテナのように うつりゆくものを すべて感受する

ポプラは また 悔いのない垂線を 地表に おろす

奥深い球心のありかを すなおに暗示しながら……

根は ひろびろと 大地を這い

天下る垂線を がっちりと受けとめる

いつの頃からか ポプラたちは この構えを このポーズを

崩そうとしない 天と地の あわいに立ち

これが唯一の生き方である……と確信しているかのように





 これが唯一の生き方である、と確信して、

天と地のあわいに立っているポプラの在り方

は、この詩人自身の世界に対する対し方を明

らかにしているように思われる。米田氏は一

種広大な宇宙感覚と鋭敏な感受性を持ち合わ

せている一方、われわれがよって立っている

ところの「地表」にむけて「垂絶」をおろ

し、「奥深い球心のありか(・・・)」をさぐろうとす

る現実感をも備えている。「天」に眼をむけ

ることによって「地」をおろそかにし、「地」

を凝視することによって「天」をふりかえら

ない、ということがない。つづめて言えば、

豊潤なポエジイと潤沢なイメージを駆使しつ

つ、広大な宇宙をうたい、時の流れとその中

で生成し消滅する人間の愛や実存をうたい、

更には、現実上或いは社会上の諸々の事柄に

対する批判を展開し、われわれ人間同士の連

帯を呼びかけている点に、この詩集の大きな

特徴があると言える。これらの特徴を最もよ

く具現化した作品が、冒頭の「ヴオストーク

Kより リーザへ」と題する長詩である。お

そらくこの作品は、宇宙船から地球を俯瞰

し、地球を一個の惑星として眺めることの出

来る地点から、地球上に存在する様々の国や

そこに住む人間について考える、といった発

想にもとづいて書かれたものにちがいない。

こういう発想それ自体がすでにユニークなの

だが、次のような詩句があって、彼のユニー

クさをうかがい知る具体的な手だてとなる。











以下、その3へ続きます。



米田和夫詩集 緒方利雄詩集   (その1) [評論 等]





 米田和夫詩集 緒方利雄詩集



 一定の紙幅の中で詩書を論評するには、お

よそ二つの方法があるだろう。一つは、数多

くの詩書を能う限り幅広くとり上げる方法で

あるが、この場合には、個々の詩書に関する

物言いはいきおい概括的にならざるを得な

い。他の一つは、評者が自分の判断に基づい

て選択し、対象とする詩書をしぼった上でで

きるだけ詳しく論評する方法である。私は後

者の方法に従うことにしている。そうするに

ついては私なりの考えがあってのことなのだ

が、しかし論評の対象としなかった数多くの

詩書を思うと私の心は痛む。せめて私信の形

ででも感想を述べるのが至当と思いながら、

それも実行していない。送ってもらった詩書

をできるだけ丹念に読むことが、私に出来得

る最小限の返礼である。この場をかりて月々

詩書を送ってくれる人々に私は感謝する。











以下、その2へ続きます。

 「詩学」 1969(S44)年 6月号より




タグ:詩書 丹念 私信

詩集『幻影哀歌』など   (その8) [評論 等]





 決して歌ったことのない小鳥が

 煙になって

 逃げた

 化粧水のつめたい朝

 消えてゆくものは歌わなくても

 美しい



            <朝の底で>



 どこにもいないわたしを

 探せば探すほど

 どこにもいないわたしは

 疲れすぎていなくなる



             <誰もいない海辺で>



 『死』がわたしのことを

 必死になって考えている時

 『生』が空の深みから

 糸を垂れて

 黙って釣りをしていたりする



             <兎が仕組んだ罠>



 きみとあたしの周りは

 きみとあたしが知らない秘密でいっぱい

 だけど この黙っている林檎の中で

 ナイフが光っているのを

 ふたりは知っている

 この秘密だけ 誰も知らない



                 <人生はセンタク>



 このような新鮮な表現が、詩集のそこここ

にみられ、これらの詩句は詩を読む楽しさを

私たちに味わわせてくれる。しかしこれらの

詩句は詩全体の中から独立したもののように

浮び上ってきわだち、単独に生きているよう

な点がある。仮に今後これらの詩句の持つ新

鮮さが色褪せたとしたならば、日登氏の手元

に残るものは何だろうか。「不安」「絶望」「死」

「不在」「無価値な空間」「無意味な価値」「不

毛」「不可能」「形而上学の遊び」といったよ

うな言葉がそこここに使われ、詩句としての

生命力を得ている。しかしこれらは、極言す

れば日登氏の感覚やイメージを表現するため

のいわば表現上の技法として生かされている

のであって、「不安」なり「絶望」なり「死」

なり「形而上学」的世界なりの、日登氏に於

ける内実をきりひらき呈示するものとはなっ

ていない。豊かな感性を創りはぐくむところ

の内的世界の深化を通して感性の豊かさ柔軟

さを更にどう発展させていくかが(<朝の

底で><兎が仕組んだ罠><ブックエンドご

っこ>等はそのことに成功した作品だ)これ

からの日登氏の課題であるだろう。私は、日

登氏がこぼれた水の新鮮さをいつまでも持ち

つづけ、その底に世界の深さを湛えていくよ

うにと願うものである。











 「詩学」 1969(S44)年 5月号より







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