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 [詩集 井戸]

   


   木


  1 立木


わたしは坂の上に立っている思い出だ

思い出の深さがそのまま

わたしの木陰の深さだ



思い出がわたしの心をやさしくし

わたしの木蔭の奥ゆきを深める

そうしてわたしは幾つもの涼しい季節

幾つもの思い出をくぐってゆく

そのたびにわたしの年輪はひとまわり大きくなる

それだけわたしの世界は空の中に広くなる



 2 夕暮時


夕暮がやって来る

遠い海岸に白い素足で上陸し

一筋の路を 町々のふところ深くへやって来る

やがて坂を越え さらに遠く

町のはずれの方まで人通りのない路を下がってゆく

わたしは不思議に明るい夕空の中にとり残され

帽子をかぶった無口な男の姿で

自分の蔭を曳き 眼をひらいたまま

坂の上に立ちつづけ

やがて深夜の方へ傾むいてゆく



  3 夏


過ぎ去った夏の記憶が

わたしに鮮かによみがえる

夏はわたしを日盛りの中にしんと立たせ

わたしの木蔭を一層深くする



日盛りの中から素足のまま

不意にかけこむなり わたしを見上げ

やがてわたしのひっそりと静まりかえった蔭の世界を

眼をひらいたまま素通りし

わたしの一番高い梢を

空の境まで登っていった子供の記憶がよみがえる



眼をかがやかして彼がそこから見た世界が

ひろがって見えてくる



わたしはその時も ちょうど今日のように

ざわめきをとめてそっと立っていてやった

空がばかに青く

やがて降りていったその子の行方を

わたしは憶えていない



   4 ふるえ


わたしはわけもなしにふるえている

空の青さがふるえを一層鮮かにする

わたしの耳はかすかな気配を風の底に聞いている

わたしの背筋は何者かが通り過ぎる気配におびえている



わたしの梢から叫び声もたてずに墜ちていった子供があった

それは遠く過ぎ去った夏の出来事だ

けれどもこうしている今も

わたしには墜ちた子の姿が見えてくる

道に横たわったまま なおも

わたしの梢を見上げていた不思議な眼を思い出す

水溜りのようにうるんだ彼の眼の中にひろがっていた

あこがれのように遠い世界が見えてくる

その遥かな世界を歩いていた人影が 死の姿をして

水溜りの底を横切っていったのも見えてくる



わたしはその時 ほんのちょっと枝をふるわせてやっただけだ

それだけですんだ

わたしはその子を遠い世界へ送ってやることが出来た

夏がめぐってくるごとに

死んだその少年が あの時と同じように無口のまま

眼も動かさず 風の気配のように

わたしの下を通ってゆくのを知っている



  5 悲歌


その小鳥は迷いこんできた

外に風のつめたい日

くちばしを傷つけて

わたしが空の中にひろげている蔭を

かすかに乱し

誰も入ってきたことのない

ひっそりしたわたしの世界の中へ



小鳥は 外を飛んで来た疲れと

傷ついたくちばしの痛みとで

しばらくはわたしの空の中でもがいていたが



やがてわたしの枝に憩い

わたしにはわからない恐怖をたたえた眼で

あたりを見まわし 小首をかしげ

遠い空を凝視しはじめた



間もなく くちばしをなおし

乱れた羽をそろえ

息を整えると



ふいに わたしの枝をけって

ふたたび外へ

どこかわからぬ わたしにはただ

夢のように遠い世界へ

飛んでいった



ああ わたしの世界はふたたび

もとの誰もいないひっそりした世界にかえり

小鳥が飛び去っていった距離も

やがてやさしい空が

もとの深さでうめてくれたが



小鳥が飛び去る時

ゆすっていった枝だけは

もとの深さに澄んだ空の中で

つかみどころのない「悲しみ」のように

いつまでもかすかにふるえている



   6 かなしみ


どこかで銃声がする

すべての木々が話をやめて耳を澄ます

けれども空には何も見えない

一羽の鳥の影もない



銃声が残していった谺もかすかになり

やがてそれは記憶がとぎれるように

静寂の中に消える

驚いたあとの空はいっそう青ざめている



わたしはもとの静けさをとりもどして立つ

するとわたしの繁みから

一羽の小鳥が 

血ぬれたくちばしをして墜ちてくる



   7 雨


細く 雨は降りつづき

思い出は濡れたままに立っている



人々は 濡れた素足のままでわたしの世界にかけこみ

しばらくはなりをひそめて雨をよけている



外が雨に濡れてゆくにつれて

かえってわたしの思い出の地図は鮮かになる

空はまだ 保たれている体温のように

わたしの記憶のはずれの方で 澄んでいる



やがて人は

濡れた足跡だけをわたしの胸に残して

晴れあがった外へたちかえってゆく



雨もやみ 人もみんな立ち去っていった頃

はじめてわたしの葉はふるえだし

わたしの思い出の繁みの中を

悲しみの風が吹きぬけてゆく

そしてわたしの世界のところどころに

いつまでも乾かぬ水溜りが

涙の跡のようにできている













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 [詩集 井戸]

   


   唖

   ーー或る唖の人の死にーー


彼の眼と外の景色との間には 常に「寂寥」がひそんでいた。「寂寥」は眼に

見えず 透明な真空のように 一刷(ひとはけ)のかげりさえもなく つかみどころはなか

ったが 彼の眼と外の世界との間にはたしかにひそんでいた。それ故に 彼が

見るものは 景色も歩いている人影も みんなさびしく見えた。彼は「寂寥」

のむこうに いつも手がとどかない遠い姿で立っていた。



彼は彼の心の地図の それをたどっていったら どんな遠くの世界に通じてい

るのかわからない路のはずれから だんだんと姿を そしてそれにつれて二つ

の眼を 深くしながら大きくうかびあがらせて 外の世界の方へ現われてきた

が 「寂寥」のふちに立ちどまると もうそこから外へ踏み出してくることは

なかった。「寂寥」のむこうから「寂寥」のつめたさをとおして 木々のかす

かなふるえを見 そよ風が蔭の奥を吹き過ぎるのを見た。



人とむかいあっている時も いつも「寂寥」のむこうで 白い手旗を振るよう

に 音もなく手を振って話した。そしていっしんに手旗を振っていた人影が

疲れて黄昏 丘の上から立ち去るように 話し終った彼は いっそう深くなっ

た「寂寥」を残して その奥へと立ち去っていった。



季節は彼の「寂寥」のすぐ外に その境い目のところまでやって来た。夏のさ

わやかさが「寂寥」をひっそりと涼しくし 秋は「寂寥」の深みの方へ眼に見

えぬ姿でしのびこみ 枯葉を「寂寥」の中に何枚か落してゆき それよりもも

っと奥深いところに立っている彼の姿を 濃くしたりうすくかげらせたりし

た。そして雨は細く静かに降り 「寂寥」をかすかに濡らした。しかし奥まで

 彼が立っているところまで 降ってゆくことはできなかった。彼はいつも

それらのむこうに白く乾いていた。



「寂寥」のむこうに立っている彼を捕えようとして 言葉の投網を人は投げ

た。網は「寂寥」の空に 一本々々の網目をうき出してひろがった。しかし網

をたぐると 網の消えた空に どんなに奥まで投げ どんなに深いひろがりで

ひらいた網目よりももっと奥に 彼はもとのままの姿でとり残されて立ってい

た。言葉の投網を投げた者は 人影もないままに沈んでいる暮れ方の海辺を

不漁の網を背負い うつむいて帰ってくる漁師のように自分の世界へと帰っ

てきた。



誰も入って行けぬ「寂寥」のむこうに 彼の世界は 人影のないまま忘れられ

た広場のようにしてあった。唖の彼はそこに現われ 立ち去り 寝起きし そ

してそこで夢を見た。時に彼は 何か大声でわめくような口つきをして 「寂

寥」をふるわせながら 外の世界にむかって 雨に濡れることができ 木々の

葉のそよぎの音をきくことのできるぼくらの世界にむかって 走ってくること

もあった。けれどもやはり「寂寥」を踏み破ることが出来ずに その境い目の

ところまで来て立ちつくすと 後姿を見せて帰っていった。そういう時 彼が

立ち去ったあといつまでも「寂寥」のふるえはかすかにつづいていた。そして

そのふるえのすき間をとおして そのむこうに 彼の魂が まだぼくらの誰も

が眼にしたことのない海のように 深い色をして沈んでいるのが見えた。













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首吊り [詩集 井戸]




   首吊り



はてしない落下だった。すべての世界すべての存在すべての蔭 落下を支える

距離や速度 自分の両手からさえ それて落ちてゆくことだった。そしてすべ

てのものの外に 立つことだった。自分からさえ入ることを断わられて 外に

立つことだった。自分の中にある坐り慣れた椅子や空 まだ体温を保って立っ

ている生の中へ 帰ってゆくことももはや出来ないことだった。自分を消し去

る無色からさえ外に立つことだった。



それからというもの ずいぶん長い夜が過ぎていったように思われた。しかし

夜に体中つつまれるということがなかった。それで寒い世界をかかえつづけて

いた。見えなくなった瞳 しかしそれだけ敏感になった瞳のすぐむこうに 雪

の降り積むかすかな気配が感じられた。夜が吐息のように音もなく 深くなっ

てゆく気配がわかった。でも外がどんなに深い闇にとざされても だれものぞ

くことの出来ないわたしの存在の芯 そこには夜からとり残された熟しきらぬ

果実の青さの薄明があった。



外(そと)の人たちは わたしを「夜だ」と言った。まだその人だちと同じ青さの空の

中に立っているのに 外の人たちはわたしをさして「夜だ」と言った。あかり

をともすことも出来ない 長い長い「夜」の持続だと。でも本当は わたしは

夜からさえ見はなされたのだ。わたしは夜の外に区別の姿で立っていた。外の

人たちは夜に触れて 自分の世界に灯(ひ)をともすことが出来た。自分の夜を持っ

ている外の人たちは 夜につつまれて 自分をそっと消すことが出来た。自分

を消して そこで夜どおし泣くことが出来た。しかし距離からさえ見はなされ

たわたしには 歩いても歩いても夜がやって来なかった。夜の中に存在を消す

ことが出来なかった。ただ独り眼ざめつづけ 薄明を持ちつづけたまま わた

しは自分の苦痛 自分の悲しみとむかいあって過ごした。そして夜明けという

ものもなかった。夜を持つ外(そと)の人々が 悲しい灯やむらさきの灯をいっぱいに

点している時 その時わたしは夜からさえ区別されて 本当のくらやみだっ

た。



やがて朝が来たが 夜を持たぬわたしは 本当のひるまを持つことも出来なく

なっていた。人々はわたしをさして「蔭だ」と言った。いったんそこに溜った

水溜り いったんそこにまで満ちてきた海 それらがいつまでも乾かぬ蔭だ

と。どんな明るさをもってしてもぬぐい去れぬ背のままの蔭だと。どんなに明

るい天気がすぐ外に来ても それ自身はいつも陽のあたらぬ世界 たまにそこ

へ入っていった天気も すぐに消されてしまう世界だと。



でも本当はわたしは蔭でさえなかった。夜にもひるまにも蔭にさえも属さぬ世

界 それらを越えた 落下のはての無限の広さだった。

わたしは叫んだものだ。落ちてゆきながら。外(そと)の夜にむかって 外のひるま 

外の空にむかって。わたしを わたしの存在を消してくれと。しかし何ものも

それに応えてくれなかった。ただ深い沈黙だけが わたしをとりまいていた。

そして前よりも一層限りない区別 一層深い静寂の中に これ以上落ちこみよ

うのない世界に わたしは立たされていた。

今は 外からのさまざまな声に耳かたむけ それを吸いとっているかのように

小首をかしげ しかしみずからはひと言の叫び声もたてず 夜の区別 ひるま

の区別も及ばぬ世界 それらを越えた世界に わたしはつまさきだちして ぶ

らさがっている。










タグ:首吊り

電話ボックス [詩集 井戸]

   


   電話ボックス


電話ボックスは一つの世界の入口だ

しんと静まりかえった通りが世界の奥へ通じている

(夏には水がまかれ やがてはずれの方へ乾いてゆき

秋には枯葉が 音のない世界の中で散るように 散っている)

出はずれには

ぼくらの歩いたことのない景色が

遠く澄みはてた空の下に拡がっている

いわば日なたの中に拡がるぼくらの世界との境い目に

電話ボックスは蔭の世界の奥ゆきをうしろにひそませて立っているのだ

そこだけいつもひっそりしている

そして時々ベルが鳴る



遠い国からの呼びかけのように

電話の奥に拡がる世界にも

路のかたわらには電話ボックスが立っていることを知らせるように

そしてそこにも 電話をかける必要を持った人々が

たくさんいるかのように

話さねばならぬ話がいっぱいあるかのように



けれども受話器をはずす者がないままに

鳴り終わった後の電話ボックスはいっそうひっそりしている

そしてそこには 遠い世界からやって来た者が

一日中だまって立っている



人気(ひとけ)のない街角で電話をかけている人影が 窓ガラスに映る 人影はせきこん

で繰りかえし相手を呼び出している しきりに何かを訴えている 応ずる相手

がないとわかった後も立ち去らない 彼の顔はガラスの中で次第に蒼くなる

ついにぼくらにとどかぬまま 人影とともに話し声はとぎれる



夕暮には遠い海岸が見える 海のはずれを濡らしてきた雨が 海岸に音もなく

降っている 雨は旗のたれている海岸通りをのぼって 路のはずれまで 乾い

たところを残さずに濡らしてゆく



夜更けの電話ボックスに灯(ひ)がともる 自分を留守にして 人が夢の奥へ出かけ

ていった深夜にも 電話ボックスは灯をともしたまま立っている(こんな夜更

けに どんな深い耳が耳をすましているのだろう) 髪をふり乱した女が 夢

の中からあわててひき返してきて かけこむ そしてあわただしく出てゆく

死んでしまった息子と 悲鳴に近い女の泣き声が 消し残された灯のように

明け方まで残っている



時には にぎやかな町が見える あれはどこの町だろう 通りはいっぱいの人

出だ 蒼くなって訴えていた人影は今頃どこへ行っただろう あわただしく出

て行った女も 人ごみの中にまぎれこんでいようか 雨は 今頃どんな路のは

ずれを濡らしながら降り進んでいるだろう 笑っている顔 わめいている顔

だまりこくている顔 沢山の顔が 顔のうしろにさまざまな声をひそませて

 大きく浮びあがっては またふっと消えてゆく。けれどもいっぱいの人出が

何処へともなく帰っていった後の通りは いっそうがらんとしてしまう そし

て電話ボックスの中は 立っている人影もなく 静まりかえっている



また電話がはげしく鳴っている

ぼくらを呼び出しているように ひとしきり

けれども 受話器をはずしに入ってゆく者のないままに

しばらくしてベルは鳴りやむ



そして鳴りやんだあとは

いっそうひっそりと

一つの世界の奥ゆきを拡げたまま

電話ボックスは

ぼくらの世界との境い目に

辛抱強く立っている

















 [詩集 井戸]




   心


心は

水に にている。

すべてのものを映し しずめ

そしてあらいながしてゆく。



とらえようとして とらえられず

わすれようとすれば かえって

そのかなしいつめたさが

身からはなれない。



心は

水ににている。

身をかたむければ こぼれやすく

こぼしては ふきようがない。



ふねや かぜや ゆうぞらや ひとのかおがとおり

とおったあとには 

ただ かなしみの深さだけが

とりのこされる。



心は

水ににて 捨てばもなく……

わたしたちのからだのとおいおくにあって

さざなみだち

さむざむと ふるえている。










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脚の歌 [詩集 井戸]




   脚の歌


ふいにバランスが崩れた

さからうことのできぬ離別の力が

心の背中を押したのだ



静かに立ちつづける長い二本の影と体温を

そして安らぎを

もとの場所に置きざりにしたまま

脚はきり際限のない距離の奥へ

自分でももう止めることのできぬ速度で

走り出していた



心は しかし

脚よりも もっと先を青ざめて走っていた

耳鳴りも一緒に空の中を走っていた



胸は苦しく 喉はかわき

脚は止まりたかったが

心は 先へ先へと

悲しい姿で走りつづけ

心をこぼさずに保つためには

脚は走らねばならなかった

しばらく 脚は自分を見失って走った



脚は走りながら いくつもの夕暮に遇った

いくつものひるまや いくつもの雨に

そしていくつもの夜の深さに遇った

それらの中を通り

やがてそれらをも素通りし

心を追っていった



脚とすれちがいざま そのまま

過去の方へ去っていく道端のどの景色も

見送る顔も

今まで脚の知らぬ世界のものだった

どんなになつかしくとも もう

走り出す前の自分に

もどれぬことはたしかだった



やがて つらさとともに

見失ったバランスが脚にもどってきた

脚は道の途中にうなだれて立った

耳鳴りも心も空の中からもどってきた



そして 落陽の時が深まるにつれ

追いつけずにうしろからついてきた人の影が

人を追い越して前に出るように

悲しみが

脚に追いつき

脚を追い越していった










タグ:脚の歌

埋められた顔 [詩集 井戸]

  


  埋められた顔


女は埋めた

自分の両手の深みにこぼさないように脱ぎとり

まだ誰にも見せたことのない一つの顔を

顔の中の沼といっしょに



広々としてはてしない心のはてに小さく小さくうずくまり

ふるえる手で

もう不意にその顔が現われる気づかいのないように

輪郭の外へこぼれ出る気づかいのないように

女は独りでだまって埋めにいった

病んだ動物が仲間からはずれ

死場所をさがして独り地平のむこうの空に消えてゆくように

少しうなだれて



心の森を通りぬけ

心の湖のほとりを 水に姿を映して過ぎ

森のむこうの野原を越え

夕焼けの中に消え

もっと遠く 季節からも遥かに離れた大地

誰にも入って行くことの出来ない心の涯てに

もう決して誰にも見られる気づかいのないところに



その顔は

ひと言も叫ばぬままに埋められてしまった

その眼は

まだ一度も歩いたことのない道のはずれを

白く映したまま埋めれられてしまった



おまえのかすかに開きかかった喉の奥には

どんな叫びが用意され

おまえの色青ざめた顔の下からは

どんな表情の深みが現れようとしたのか

今はもう知るよしもない



自分の顔を埋めおわると 女は

夕焼けを肩から払い落して立ちあがり

全く別の顔をしてもどってきた

葉っぱなどを肩につけて

少し手を汚して



ふるえながら埋めた手

小さくうずくまっていた姿

そこをたずねてゆくための地図

埋められた顔にまつわるそんなもののいっさいを

一緒にそこに埋めて

いにしえの女たちが 誰にも知られぬうちに遠く出かけ

「生理」を処理してこっそりもどってきたように

女は もう決してふりかえらぬ足どりで

心のはてからもどってきた



そうして女は生きた

それからの人生を その長い距離を

表通りを



もう決してゆがんだりこぼれたりしない顔で

決してふるえたりしない手で

小雨など降らない眼

奥の方の景色を濡らしたりしない眼で

全く別の顔で生きた



誰にものぞくことのできない深々とした深さを

その底に沈めながら

岸辺の木々 季節々々の空を映し

時に のぞきにくる者の顔を涼しく映し

ボートを浮かべ さざめきの声をすべらせながら

さざ波もたてずに澄んでいる湖のように



死んだ息子を胸もあらわに腕にだいて

歎き悲しんでいたのも別の顔

埋められた顔は

その時もとうとう帰ってはこなかった



そうして年とって 黙って死んでいった女よ

それでもたった一度 いまわのきわに

遠く埋めた顔を思いうかべて

死んでいったであろうか

人の寝静まった夜更けになると

毎夜 おとずれてきて「詩人」は言う



女の心の地平には夕焼けが今日も美しく

人影のない空の下に

埋めに行った若い女は

今もその時の姿のまま 小さくうずくまり

身をふるわせてすすり泣き

埋められた顔は

そのかたわらで眼をひらいたままであると



そしてひらいた眼がうかべているものは

うずくまって身をふるわせている女の姿ではなかったと

その後女が別の顔で歩いた道のり

時として女を驚かせた夕空や木々のそよぎ

息子の死でも戦争でもなかったと

誰も今は見知らぬ男の顔

たった一度 路を通っていった男の顔であったと



そこへ行く地図を手入れたという「詩人」は

今夜もそっと心の奥にやって来て

見てきたようにぼくに言う












気配 [詩集 井戸]


   気配


そこにいるのは

だれ?

うしろに立っているのは だれ?

わたしの足音のはじまるところから足音がはじまり

常にわたしが立ちどまると

わたしの地点よりわずかに離れたうしろでとまる



わたしはふりむく

その時はすでに

ソーダー水が蒸発したように

青いあおい奥ゆきの空だけしんと残して

姿を消している

そしてふりむいたわたしのうしろに

今迄たしかに其処にいたことの それ故に

いまだ静まりきらないかすかな気配を涼しく立たせて

わたしをいつまでも不安にさせる

あなたは だれ?

木のうしろに隠れて

空の中に延ばされた細い枝先を

かすかにふるわせつづけている「心配」のように

海の深みにひそみ

水の色をいつまでも染めている「深度」のように

黒ぬりのオルガンの中にじっとしゃがみこんだままひそんでいて

不意に誰もいない部屋の中のオルガンを

響かせる母音のように

わたしのうしろに隠れていて

わたしのがらんとした心を震わせるのはだれ?

故知らずわたしを泣きたくさせるあなたは

だれなの?



いいえ 眼には見えないけれど

手には触れないけれど

たしかにその人は立っている

気配で わたしの肌にふれるかすかな空気の身動きの気配で

わたしにはわかる



しみ一つ染まっていないわたしの心

しわをのばした白絹のようなわたしの心を次第に

どんな水ゆすぎのはてにもすすぎきれない程の

深い悲しみの色で染めてゆき

ゆらさずにはげしくあふれそうになったのは

その人がわたしのうしろに風の気配のように

そっと立つようになってからのこと



いつどこから その人をわたしは連れてきてしまったの

どんな夏の奥から連れてきてしまったの

わたしが路の途中ですれ違った人は

見ず知らずの男の人だったのに

その人は何ごともなく

その人にとっては 雲一つ空の色の濃さ一つ変らない

前と同じ天気の中を

すれ違ったあともそのまま

わたしと反対の方へ遠ざかって行ってしまったはずなのに

その時からわたしの天気はすっかり変り

わたしは わたしのうしろに立って

わたしを苦しくさせる人の気配を連れてきてしまった



わたしが今迄 わたしの眼の奥に大切にしまっておいた景色

晴れわたった空やその青さまで濡らすあなたは

どんな雨なの?

それまでわたしの眼の中を歩いていた顔をみんな

ガラスに映っている景色をぬぐうようにして

外へ歩かせていってしまったあなたは

そしてそのあとに

誰もいないがらんとした夏の広場だけを置いていったあなたは

どんな天気? どんな「晴れ」なの?

わたしの国境を越え

わたしの夢の中にまで入ってきて

涼しく立っているあなたは

でも驚いて眼覚めると

ただ気配だけを残して

もうわたしの囲いの中にはいなくなっているあなたは

どんな「夜」なの?

路の途中で 行先から不意に

わたしを横路にそらしてしまうあなたは

どんな「行先」なの?

わたしをこんなにはげしく目まいさせるあなたは

いつの夏?

わたしの小さな胸を

息もつかせぬくらい苦しくさせるあなたは

何という病気?

幾つもの夜をくぐらせながら こうして

わたしをしゃべりつづけさせるあなたは

どんなに長い 終りのない物語なの?



わたしはもう

わたし自身わからなくなりながら

わたしのうしろに隠れている者の名を

呼びつづける











タグ:気配

 [詩集 井戸]



   歌


あじさいの世界は深く

花びらのかげりのむこうに

空はとおくまで晴れて ゆきつくことができない



その空のはて 気のとおくなるようなはてで

海は素足のまま みちひきしている



あざやかで濃い海だよ

それは とおいとおい

手のとどかないところに寄せている海

はじめての夏に ひと時

ひとのひとみにまでみちてきて

ひとみの奥の空や天気を濡らしていった水の色

やがてそれをとどめようとするどのような手からもこぼれて

後姿を見せたまま

夏のむこうへ

無限にひき去っていったあざやかな海

今はあじさいの世界のはてにしかない水の色



耳を澄ますと

潮騒が

はるかな記憶の中をとおざかってゆく人声のように

かすかにかすかにつたわってくる



夏の深まるにつれ

あじさいの世界も深まって

海はますます あざやかな色のみちひきをくりかえす

ただ無際限にひき去るためにのみ

波うちぎわにさしみちてきては

前よりもいっそう遠く しりぞいてゆく

もう何ものにもみだされぬ静かな世界で

海はひき潮のうたをうたっている



いつはてるとも知れぬそのみちひきに

花びらのかげりをかさねながら

晴れた夏の日ざしの奥で

あじさいは はかなげにうちふるえている



見ているだけでひとのひとみはかなしげにかげってくる

夏の中で思いを深くしているひとの心もかげってくる



どこへひいてゆくのだろうか こぼれもせずに

さらにとおいどんな世界へかえっていかなければならないのだろうか



やがて夏のおとろえとともに

あれほどあざやかにひらいていたあじさいの世界も

空の中にうすれてゆき

ひき潮のひき去るとともに消えてゆく



わたしの耳底に

ひき去ったあともかすかな潮騒が残り

そうしてそれにききいっているうちに

わたしの心の遠くから

水の色のみちてくるにもにて

しだいにせつなさがさしみちてくる











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歩く人 [詩集 井戸]

   歩く人


    1



いつも歩きつづけている人影がぼくらの中にいる。

とりわけ ぼくらの心のかげりのあたりにいる。



立ちどまって耳をすますと

潮騒のように 耳の奥を通り過ぎてゆく。

まぶたの裏側の薄明の中から

高鳴りのように

しだいに視界の明るさの方へ近づいてくるのが見える。

それにつれてぼくらの心も高鳴ってくる。

深夜も彼は眼ざめつづけ

ぼくらの夢の中をだまって通り過ぎ

夜明けの方へ曲ってゆく。



水のさしひきにも似た人影は

ぼくらが歩みはじめると

降り過ぎる雨が遠ざかってゆくようにその足音を消し

いつかぼくらの体の奥へと遠ざかってゆく。



しかしその時も 人影は

ぼくらの歩みに重なって

心の地平のあたりをぼくらと共に歩いているのだ。

ぼくらの歩調が乱れる時

そのすきまから 彼のしずんだ足音はこぼれてきこえてくる。

ふたたび立ちどまって耳を澄ませば

またはっきりと彼は近づいてくる。



彼はだれだろう。

ぼくらめいめいの体の奥に住み

それぞれのコスモスの深みの中を

それぞれの歩きようで歩きつづけ

通り過ぎる黒い人影。



彼はどこから出発してきたのだろう。

あの大地に降る雨のように重く しっかりした足どりは

どれほどの夜の深さを歩いてきたのだろう。

ぼくらが生まれる前のどんな世界を

どれほどの長い人類という奥ゆきを

彼は歩いてきたのであろう。



ぼくらが気づいた時

すでにぼくらの幼年期の中を歩いてきた。

そして今もぼくらの中を歩きつづけ

やがてぼくらが歩みをやめる時も

ぼくらの体からぬけ出し ぼくらの境界を越えて

血が受け継がれてゆくように

さらに先の子孫たちの新しいコスモスへと

一筋歩みつづけてゆく。

彼はどんなに遠くまではてしなく出かけてゆくのだろう。



 2



単数にして同時に複数のような人影。

彼はひっそりとなりをひそめているが

その足の奥ゆきには

人間のたくさんの歩行が重なりひそんでいる。

蔭の奥にさらに深い蔭があるように。



人間の長い歩行の累積と距離の総和が

彼の二本の足の奥ゆきをつくり

その強いバネとバランスをつくった。

そしてこれからのはてしない距離と歩行の予約が

無限の踏み出しとしてひそんでいる。



たえずゆれつづけるぼくらの肉体の中を

彼は通ってきた。

長い通過の中で

ゆがんだ顔も重い手もすべてふり落としてきた。

今はなくなっているが

かつて首の上に据えられていたのは

どんな顔であったろうか。

あの「鼻のつぶれた男」の顔だったろうか。



今はバネそのものの二本の脚と

がんじょうな胴と

それらの中を流れるほてるような体温しか持っていないが

その塊り全体が顔の表情をたたえている。

足そのものが深い顔なのだ。



なんという固有名詞でその人影を呼ぼうか。

普通名詞のような奥ゆきの彼をーー

「人間」と名づけるよりほかなかろうか。



常に「出発」の姿

その持続発展の姿として

静止を破っては生きかえり

雨の中を通り ひなたに出

蔭の深みに入り

そしてまた 潮騒のように

ぼくらの耳の奥を通り過ぎてゆく。


























タグ:歩く人

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