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鳥見迅彦詩集『なだれみち』など  (その2) [評論 等]





 大雑把にみて『なだれみち』の諸作品は、

内容の上からほぼ三つに区分することができ

るようだ。その第一は、「うしろむきの磔」

「登攀者」等の総題のもとにまとめられた作

品群、著者「あとがき」中の言葉を借りれば

「その運命的・悲劇的な意味」をより濃く湛

えたものであり、もっとも直截に『けものみち』

の世界を引き継いでいる作品群である。第二

は、「空には鷹」「クララ」の総題のもとに

集められた諸作で、愛とエロチシズムにかか

わりを持つ傾向のものである。第三は、「ハ

イマツのハンモック」の総題のもとに集めら

れた作品群で、これらは登攀を直接の主題と

している点に於て第一の作品群と変りがない

が、前者とはやや趣きを異にして一種の明る

さと人間に対するおおらかな見方が底流とな

っている。総じて詩集の前半は悲劇的な色あ

いとそれに伴う苦渋の翳が色濃く、後半に進

むにつれて明るく軽快な様相を呈する。

 しかしこれらの区分けは便宜的なものに過

ぎないのであって、『なだれみち』の底流を

なしているものは、『けものみち』の詩世界

にも通ずる「その運命的・悲劇的な」性格で

ある。つまり私の言う自虐性を媒介項として

なされる倫理性への志向である。私はこの詩

集繰りながら、用紙の底に何本かの縦線が

透し模様となって施されていることに気づい

たが、丁度その透し模様のように、「運命的

・悲劇的な」性格はこの詩集を貫流してい

る。











以下、その3へ続きます。



鳥見迅彦詩集『なだれみち』など  (その1) [評論 等]





    鳥見迅彦詩集『なだれみち』など



 詩集『なだれみち』は『けものみち』に次

ぐ鳥見氏の第二詩集である。『けものみち』

上梓(一九五五年)以後一四年間に制作され

た「『山』にかかわりのある詩だけ八十九篇」

(あとがき)がここに収録されている。

 『けものみち』に於て鳥見氏は、総じてけ

ものたちの様々な姿を寓意的に捉えつつ、人

間批評、文明批評、社会批評等の諸批評を試

みた。『けものみち』を読み返してみて、そ

こにもられた批評性が今日もなお色褪せずに

いることを私は確認したが、このことは、鳥

見氏の作品がとりもなおさず自己追究や自己

批評の一点に凝集され、その根源的な地点か

ら発想されていることによっているだろう。





 とびあがり

 とびあがり

 落ちて

 ちゅうちゅうとないて

 上を見ている

 自分を

 見た





   (「罠」部分)





 おれ自身にむかっておれが遠吠えしている





    (「疥癬の時間」部分)





 こっちをむいて立っている

 おまえは誰だ?

 というおまえこそいったい誰だ?





    (「おまえは誰だ」部分)





 つまり例えば、落ちつずける自己の中に、

落下に逆らって「上を見ている」「自分」を

保ちつずけており、しかもそのような「自分」

のいることを見つずけている自己を鳥見氏は

ちゃんとわきまえている。「おれ自身にむか

っておれが遠吠えしている」という場合も、

「おまえは誰だ?/というおまえこそいった

い誰だ?」という場合も、そこには際限を知

らぬ自己凝視と自己懐疑があるわけである。

際限を知らぬ自己凝視と自己懐疑は、いきお

い自虐性な色あいを深めていきがちだが、鳥

見氏の場合も例外ではなかった。一般に自虐

性は往々にして、自己瞞着や安易な自己陶酔

におちいりがちだが、本来それは高い倫理性

への志向を内に孕んでいるものである。自己

を加虐者の立場に置くと共に、同時に被虐者

の立場にも据え、その両極から自己をせめぎ

つずけ、そのような営みの中から加虐者・被

虐者のいずれにもくみせぬ自己を検証し、確

立していこうという願いを内に孕んでいる。

そのような自己によって、世界を、物の価値

をつぶさに見ようとする積極的な姿勢をひそ

めている。「『けものみち』とは深い山の中を

ゆききするけものたちのひそかな踏跡のこと

であるが、ここでは人間の行路を暗示する一

つの隠喩として藉りた。」(『けものみち』あ

とがき)という言葉も、右にみたような事柄

を裏づけとして読むべきだろうと私は考える

し、自虐性を媒介とした高い倫理性への志向

が、鳥見氏に「野うさぎ」のような作品を書

かせたのであっただろう。

 『けものみち』にみられるこのような性格

は、『なだれみち』にも通じている。











以下、その2へ続きます。

 「詩学」 1969(S44)年 8月号



否定的な感想   (その7) [評論 等]





 以上私は、詩に対する擬態的態度に触れて

否定的な感想を書きつけた。しかし一方にこ

れらにほとんど対蹠するものとしての素朴な

詩集が何冊かあった。藤尾花作詩集『原点』、

森口武男詩集『カッパのあいさつ』等であ

る。素朴さはそれを意識した時にはたちま

ち素朴であることをやめ、鼻もちならぬ独り

よがりと、思わせぶりなポーズに堕する危険

を孕んでいるし、一方、自然発生的な主観の

吐露に終らせる安易さへ作品を追い込む危険

をも持っている。この二詩集にもそういうあ

ぶなさがないわけではないが、しかし、パン

フレットと言った方がふさわしいような、こ

れらの詩集に収録されている作品には、詩に

関する観念的知識をふりまわして、「痛苦の

重み」だの「反詩的」だのといった大袈裟な

揚言は見られない。自己の感動に忠実であろ

うとするひたむきさが見え、もっぱら正直な

ところを、たとい古いと言われようと、現代

文明に対する批評性が不足していると言われ

ようと、現代むきのこざかしい手ごころなど

加えずにうたっている。表現上の装飾や目あ

たらしさは、今日只今いかに新奇に見えよう

と、時ならずして褪せてしまうものと思わね

ばならぬ。「情況」だの「自己疎外」だのと

いう言葉が、詩集のあちこちに見られ、一種

の流行語になっているようだが、こういう言

葉に安易によりかかって、末梢神経を刺激さ

せている一部の者たちの脆弱な精神は、これ

らの言葉が色褪せるよりもすみやかに、凋落

していってしまいがちなのである。





 黙っていることは辛いことだぞ

 一日中涙を流すより辛いことだぞ

 私がお前に黙っているのは

 黙っているがましだからではない

 大人が小児になるより辛い思いで

 黙っていなければならないからだ

 黙っているほかどうにもならないからだ



     (略)



 云ってしまえば

 それで済むとお前は云うのか

 云ってしまう

 それもよかろう

 だがそのあとには恐ろしい沈黙が待っている

 それが目に見えているので

 私は黙っているのだ



     (略)



 私が黙っているのは

 喋ることが恐いからでも

 喋ったあとが恐いからでも決してない

 この辛いのをがまんすることだけが

 私に出来るたった一つのことだからだ

 私が抱えた一ぱいの荷物を下ろそうと

 お前の親切そうなそぶりは解るが

 そのつもりが荷物を積重ねていくのだ

 残酷な善意はもうたくさんだ

 私とてお多聞にもれず

 お前の荷物を軽くするつもりが

 そのつもりがかえって

 重くしているらしいが

 おたがい様で済まされてたまるか

 黙っているのは、なんといっても辛いことだぞ





            ーー藤尾花作「重荷」





 ーーよめさんがほしい。

 と、あいつは木にだきついた。

 雀がとびあがった

 あいつは

 そのまま戦死した。

 その木がまだある。

 雀がまだいる。

 孫かひ孫か

 なにかさえずっている。





        ーー森口武男「昔話」





 夜なか。

 ト、ト、トと

 音がする。

 あれは

 腰いたの母が

 懐炉の灰を

 火鉢にたたいて

 すてる音だ。

 ぼくは

 八十二のあの母が

 死んだら

 くいな(水雞)になるのかと思う。あの鳥は

 夜なか

 さびしくたたくような声でなくという。





      ーー同「母」











    「詩学」 1969(S44)年 7月号

* 最初の森口武男のお名前が武夫になっていましたの訂正しました。






否定的な感想   (その6) [評論 等]





 私の感想は否定的な見解を述べるのに急で

ありすぎたようである。松浦氏の作品の中に

は部分的に優れた表現がある。



 影が落ちる

 樹から樹の影が

 飛びたつ小鳥から小鳥の影が

 的確に落ちるように







 自分の肉体にぴったりのこの荒家(あばらや)から

 わたしはどこへ旅立つことができよう





 束の間の人間の仔細が

 わたしの頭脳の砂浜をひたひたと洗い

 ひとつの世界をめぐっている





 ……こう表現

するときの松浦氏は、的確な眼で世界を明晰に

見ている。作品としては「この青い空は」

「糸杉の森」「誤読」「たそがれ」「冬」等を、

幾らかの問題点を感じながらも私は評価す

る。これらの作品には気負った松浦の姿はな

く、対象にひたむきにむかおうとする松浦氏

がいる。松浦氏もまた、氏が身に鎧っている

「知識」を脱ぎ去り、素裸の魂で世界にむか

いあい、そしてそこから改めて詩を出発させ

ていくべきであると思う。











以下、その7へ続きます。


タグ:松浦氏

否定的な感想   (その5) [評論 等]





 松浦氏の気おいは「ベトナムの太陽」に於

て、、批評精神の脆弱さを露呈してしまってい

る。



 見よ

 ベトナムの無数の太陽たちは

 ジャングルの奥深くにひそみ

 デルタに氾らんし

 メコンの大河に照り映えているではないか

 今宵

 貪婪な権力者たちが夢に追従笑いをもらし

 あくどい為政者たちが女を抱き

 われわれが偽りの平安の醜い仮装舞踏会を楽しんでいるとき

 これら太陽たちは沈むことなく滑っていく



    (部分)



 こういう表現が続き、そして「われわれを

癌のように苛む日がくるであろう/われわれ

はいま何をしているか」という詩句でこの作

品は終っている。卒直に言って、ここにプロ

パガンダはあっても詩的批評精神の持つ強靭

さはない。批評精神らしきものがあるとして

も、それは既成の批評性に過ぎない。むしろ

私には、このような「ベトナム詩」を書くこ

とによって、ベトナム反戦の声に和し得たと

する松浦氏の自己満足と自己錯誤が透けて

見えるような気がする。「われわれはいま何

をしているか」という糺問は、非生産的な響

きしかもたらさない。糺問が必要なのではな

く、「何をしているか」の検証が必要なので

あり更に言えば、何をすればいいのかが問題

なのであろう。











以下、その6に続きます。



否定的な感想   (その4) [評論 等]





   松浦直己詩集『影の部分のある研究』(国

文社)

 私は、松浦氏の詩集にも幾つかの疑問を持っている。



     エピローグ



 空と大地にむれつどう

 異形の鳥たち

 谺に声もかき消され

 矛盾と反転の星のもと

 自塞の極をめぐる

 内なる世界の

 怨嗟の崖と愁嘆の霧のむこう

 あの扉の喉をおし開き

 わたしは屹立しながら

 さらに さらに

 季節はずれの存在の雷鳴に

 打ちすえられていくだろう



 題名の示す通り、この作品は本詩集のエピ

ローグとして書かれている。必ずしも集中の

代表作ではないが、私が氏の作品に感じる幾

つかの疑問点を、集約的に持っているとみら

れるので引用した。「季節はずれの存在の雷

鳴に/打ちすえられて」いこうとする決意の

ほどはわかるのだが、それを裏づける作者の

魂の声が伝わってこない。結局決意の概念的

な表明だけに終って、詩的感動がよびさまさ

れない。「矛盾と反転の星のもと」という表

現も私はよく理解できないし、「自塞の極」

に立たされた作者の姿も、実感として私には

伝わってこない。松浦氏の「内なる世界」に、

「怨嗟」や「愁嘆」が氏をして「屹立」せし

めるほどにあるのだとしたら、そしてそれを

十全に表現しようとするならば、作品がこの

ように概念的なものになるはずはないのであ

る。

 松浦氏の発想には一定のパターンがあり、

そのパターンに依拠しすぎる為に、作品が窮

屈なものになってしまっている。ポエジーが

のびのびと拡り溢れ出るということがなく、

パターンによっておさえつけられてしまって

いる。従って、かなり独断的な意味を言葉に

もたせすぎ、イメージに明晰さと鮮明さが欠け

る結果になる。



 同じ空の下で

 風が向きをかえると

 秘事のように

 孤独というやつは

 無に形体をあたえるから

 聖者のように

 鼻毛をひきぬき

 ヴァイタリスをなすって

 俺は翔んだ



    (「穿たれる時間」冒頭)



 沈黙の親密さを信じるな

 何故ならこのとき言葉の陰謀と跳梁がはじまるからである

 何よりもぼくは親しき者の淫らな悲鳴が好きなので

 まず己れを逆さに吊るそう

 今日こそジャズと恋人とコーヒーで

 言葉を発情させて星々の形で空高く噴き上げよう

 と思いながら 

 夜には妻の鎖につながれて眠った」



  (デ・プロファンディス」冒頭)



 夜にはH・リードの詩篇など読み

 個性的に妻をリードして



  (「似ていない自画像」部分」)



 ……こう

いう発想や表現に私は疑問を持つ。ここにあ

る安易な諷刺性や諧謔性ないしアイロニーを

認めるわけにはいかない。引用は部分的であ

り、従って、一斑を以て全豹を卜してはなら

ないが、しかしこれらは、松浦氏の精神を物

の本質にむかわせるよりも、本質から眼をそ

らさせる役割を果している。












以下、その5へ続きます。



否定的な感想   (その3) [評論 等]

 



   文岸と空詩集『ボラの音』(近畿文芸社)

をも、私は遊戯性の著しいものとして拒否し

なければならない。



 逃げられようか

 しゃれこうべ笑う 大地の底

 うつる影 太陽の外で奏でる夕べに

 追われるはづではない

 おまえ自身死を宣告したとて

 追うべきはづのおまえの歯車

 喫茶店の煙で空転
 
 森の陽溜りで空転

 大脳に余分の油がないのも

 おまえの悪戯であるのか



   (「はたんちよう運命」)



 これを私は詩と認めることができない、

「ぼってら、お尻を浮かして/泥酔セリフ/

『あたいが ヒロインよ』/それで 桟敷は

ラブのカンカン虫」(プロダクション オ

ブ ラブ」部分)に至っては、作者の安易な

人生態度そのものを私は峻拒しなくてはなら

ない。たまたまこの詩集に横田英子氏が跋文

を書いているが、そこにこういう言葉があっ

て私として賛成しかねる。「何か得体のしれ

ない渦を感じさせる。未知数に対する愉しみ

につながるものであることは確かだ」云々。

『ボラの音』収録の作品に関する限り、「何

か得体のしれない」ものは感じても、「未知

数に対する愉しみにつながるもの」は決して

感じられない。跋文が儀礼的になりがちであ

ることは私も知っているし、それをあながち

悪いこととは思わない。しかし、否定すべき

ものや批判すべき点は、はっきりと否定し批

判することこそが、礼儀にかなったやり方で

あるだろう。微温的で当りさわりのない相互

交流は何ものをも産まない。私は、両氏が詩

に対する微温的な考えを放擲し、詩とは何か

を自己にむかって真剣に問うように心から願

う。











以下、その4へ続きます。



否定的な感想   (その2) [評論 等]





 横田英子詩集『蟹の道』(再現社)

 この詩集にも右にみた観念的・遊戯性が著

しく現れている。総じて表現に饒舌さが目

立ち、言葉が空転してしまっている。



 私たちは習慣づけられた

 太陽に背けない回転は

 歯車と歯車が、しっかりかみ合うこともなく

 脂汗をにじませての語らいもなく

 追い求める会話の鋭い痛みさえ

 幻覚に変えようとする……

    (略)



 これは「季節から季節へ」と題する作品のだ

第五連であり、私には文意もよくわからない

のだが、私が言いたいのは、「追い求める……

鋭い痛みさえ」「幻覚に変えようとする」態

度が、ほかならぬ作者自身の詩作態度にある

のではないかということである。横田氏は

「鋭い痛み」を自分の魂に感じ、それをひた

むきに「追い求め」ているのだろうか。「鋭

痛み」らしきものを「幻覚」のように作り

上げているに過ぎないように私には思える。

「のたうちまわる苦悶の形相」とか「非情の

きずな」とか「恐怖の動悸」「私の冒険」「自

分の位置と闘い」「意識のいとなみ」とかい

う言葉が目につくが、これらは空疎な響きを

しか私たちにもたらさない。横田氏はこれら

の言葉を使って、社会批判なり人間批評なり

を試みようとしているのだろうが、しかし氏

が意図した批評は、初めの数行を読んだだけ

ですでに読者に見すかされてしまい、読者は

作品を読むことを通じて、自分が今迄気づか

なかった世界を新たに発見するということが

ない。



 鍵をあつめる

 人は何重もの鎧戸の中に身をすくめている

 スピードを買う 経歴を売る

 嘘を結ぶ

 野心の裏に這う狂ったさそりに

 気づかない男

 街に転がるありふれたドキュメンタリー



               (「ある消息」)



 このような表現から詩的感動はもたらされ

ない。つまるところ横田氏は、詩は批評でな

ければならないという観念で身を鎧い、その

ためにかえって物の本質をつぶさに観るこ

とを放擲してしまっているのではないだろう

か。表現は必ずしも十全ではないが、「早春

の陽がしみる」「胸の中の玉がとけるとき」

「挽歌」等の作品に見られるような、自己の

魂に忠実な態度をもっと大事にすべきであ

る。











以下、その3へ続きます。



否定的な感想   (その1) [評論 等]





   否定的な感想



 この数カ月の間に私が読んだ八、九十冊の

詩集の中には、観念的、或いは遊戯的とでも名

づけられる傾向のものが、かなり多くあっ

った。今月読んだ詩集についても同様なことが

言える。観念的傾向といっても、ここでは主

として、詩にむかう詩人の態度を問題にして

いるのであって、詩がとり扱っている主題や

世界に直接かかわらない。詩にむかう態度

に隙があり、その結果作品が拵物になってし

まっているのだが、あたかもそれを詩である

かのように錯覚し自己満足におちいっている

傾向を言うのである。私のこういう言い方は

批評家的であるかも知れず、当の詩人は誰よ

りも自分の欠陥に気づき、自分なりの仕方で

自己脱却を試みているのであろう。しかし当

人の持つ詩についての「知識」がかえって災

いし、対象にじかにむかうことを妨げ、発想

そのものを限定してしまい、詩を観念的遊戯

的なものにしてしまうということにもなりか

ねない。私たちは自分が既得したところの、

そして常々詩作のよりどころとしている詩観

ないし詩意識を、絶えず反省しつづけること

が必要なのではないか。











以下、その2へ続きます。

   「詩学」 1969(S44)年 7月号










米田和夫詩集 緒方利雄詩集   (その7) [評論 等]





   桃の花



 桃の花が散る

 はらはら散っている

 少女は駈け寄って

 いっしんに受けとめる

 少女等は

 校庭に集まって

 昼過ぎの汽車に乗る

 都会の紡績に

 買われて

 いくのだ

 少女等は

 地上に色褪せる落花のような

 世の中を

 知らない

 その汚れたからくりの真中に

 巻き込まれようとすることに

 気付かぬ

 それを

 知るようになる

 やがて知るようになるだろう

 やがて頬っぺたから血が失せ

 お白いをぬりたくって

 生きようとする

 無心に散っている

 花びら

 いっしんに駈け廻る

 少女等

 都会の紡績に買われて行く





 無心に遊ぶ少女らの可憐さが美しくうたわ

れ、やがてその無心さが哀しみによって色ど

られていかざるを得ない、そういう社会の

「からくり」に対して、緒方氏は静かにしか

し精いっぱいにたち向っている。美しいもの

を美しいものとして真直ぐに見る目を緒方氏

は持っている。美しいものを汚す「からくり」

を見分け、それに立ち向かう性根をも持ってい

る。中山範鷹氏は跋の中でこう書いている。

「社会の中の一人として又現業職場の一労働

者としての自覚の中から生れているとは云え

ないにしろ、彼の郷土の風習に対する批判の

目は働きながら詩を書く人達だけが持ってい

るものだと思う。今後彼には何んと云って

も、彼の周囲の人達から始まり現業職場の人

達そして多くの労働者に絶対の信頼感の中か

ら彼の抒情による作品世界を展開して戴き

たいものだ。」ーーそうだろうか。一部文脈に

不文明な点があるがそれはそれとして、私は

この意見に賛成出来ない。緒方氏の作品が

「社会の中の一人として現業職場の一労働者

としての自覚の中から生れているとは云えな

い」とは決して言えないのである。むしろ

逆であろう。引用が部分的であったが上記引用

の二作品がそのことを証拠だてている。労働

者に対する「絶対の信頼感」云々に関して言

うならば、「絶対の信頼感」と称するものに

緒方氏が無批判な仕方で埋没してしまわず、

自己の主体をかかげた結果が、氏の詩をきわ

だったものにしたとみるべきだろう。更に言

えば、自己の主体を見失わないことを通じて

しか、人間に対する信頼感は得られない。

「己れの弱さを知り/知り尽くすものの強さ

……云々」(「つゆぐさ」)と緒方氏自身うた

っているが、そういう強さを緒方氏はこれか

らも掲げていくがいいと思う。

 そういう強さを見失い「政治主義」に走

った氏の一部の作品は皮相なものとなり、現

実批判の面でもひ弱なものになっている。

「料亭で末席に座し 飲んでいた」組合幹部

(と想像される)について、「鬼畜とののし

り 振り上げたこぶしは芝居だったのか(略)

/俺たちは売られたのだ/彼は にたり哄っ

て 寝返りをうったのだ」(「不審」)とうた

っているものなどがその例である。寝返りを

うった人間の心中なり弱さが洞察されていな

い。それ故に本当の批判がそこに出てきてい

ない。したがってこれらの表現は詩の言葉と

なっていない。











 「詩学」 1969(S44)年 6月号



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