SSブログ

米田和夫詩集 緒方利雄詩集   (その6) [評論 等]





    仔牛を売る



 降りしぶく雨の中

 鼻面とられ しょんぼりみつめるおまえの瞳に 痩せ細るかたちで竦み立つおれは柄になく涙を拭くと云うのだ

 お神酒をちょっぴり甜める

 これは因習である 別れの因習である

 おれはおまえを引張る

 おまえを大地を踏んまえてかぶりをふる

 いやいやする 哀願する

 おれはその時火花のように貧乏を憎む



 ~(略)~



 おまえは 軈て びっしり 背を 雨にうたせて

 みどり煙る

 赫土道を

 あの櫟林から

 消える

 駅へ 向う

 おまえはふりかえり振り返る 低く 低く 唸る

 咽び泣く如く啼いて 又 振り返るのだ

 背離でもない 鬼ではないおれのこころはそれが耐えられぬ

 雨はこのまわりに冷たくざわめく

 おまえの褐色の体毛は洗らわれる 震える

 五分角の尖端が雫に 光る それが

 おれのこころを理不尽に射るのである

 卸立ての席を掛けてやろう

 おれは鼻面を寄せ いつものよう おれの懐の匂を

 嗅ぐのである



 

 紙数の関係で全篇を引用できないのが残念

だが、この作品によらず「風習3」「乾いた

季節に」「森」「冬にも」「桃の花」「雨の

師走(1)(2)」「つゆぐさ」「彼岸花」「局外者」

「問う」「夜の断章」「あじさい」等の佳作

は、総じて機関助士として又一社会人として

の生活の中で見聞し体験した事柄を、自分を

偽わらずに正直に直截にそして誠実にうたっ

ている。引用した作品に見られるせつなさや

哀しさや人間的な苦渋は、古さと新しさと

いう問題を超えた人間感情として永遠のもの

であるだろう。こういう人間感情を捨象した

ものとして「政治主義」が云々されるとした

ら、それはわれわれ人間に何物をももたらさ

ない。緒方氏の作品には「政治主義」はない

としても、「あさ晩の霜にえぐられても動じ

ない/性根」(「冬にも」)が一本通っている。

性根の強さは同時に次の詩に見られる人間的

なやさしさに通じている。









以下、その7に続きます。



タグ:仔牛を売る

米田和夫詩集 緒方利雄詩集   (その5) [評論 等]





 緒方利雄詩集『風習』

 緒方氏は「あとがき」で「現在、私の地方

性叙情詩は『国鉄詩人』では問題外として処

理さえています。労働者は社会に迎合する作

品を書いてはならないと云う、つまり政治主

義を基盤にした作品を書けと云う。現体制を

肯定しないまでも抒情詩しか書けない、それ

は私の弱みであり、苦悩でもあります。」と

書いているが、決してそんなことはないので

ある。労働者であるなしにかかわらず、詩人

はすべて「社会に迎合する作品を書いてはな

らない」のだが、しかしそのことはただちに

「政治主義を基盤とした作品」を書かなけれ

ばならない、ということにはならない。抒情

詩という場合、その質が、問題になるが、

「抒情詩しか書けない」ことは、決して自身

の「弱み」であるわけがない。自己の「弱

み」や「苦悩」を素通りして、皮相な「政治

主義」に走ることそのことこそが本当の「弱

み」なのだ。緒方氏が自己の「弱み」として

恥じているものこそが、現実をうたい貧困を

うたい地方性や「風習」や「因習」をうたっ

た氏自身の諸詩篇を、美しく力づよく輝かし

いものにしている源動力なのだ。もし本当に

「国鉄詩人」の中に「政治主義を基礎にした

作品を書け」というような風潮が存在するの

だとしたら、そういう考えは迷妄であり、迷

妄を打破することに於て緒方氏は逡巡しては

ならないだろう。私は緒方氏の作品を読んだ

上で右のことを言っているのである。











以下、その6へ続きます。

(管理人注) 雑誌では途中から緒方氏のことが米田氏と誤記されていると思いますのでこちらでは緒方氏に直しています。



米田和夫詩集 緒方利雄詩集   (その4) [評論 等]





 政治的、社会的ないしは形而上的その他い

ずれのものであれ、一定の観念を設定し、そ

れに依拠して詩を発想する態度は、詩的営為

の上からいって誤りであると私は考える。設

定された観念は、設定されたものとしてとど

まる限り(つまり肉体化されたものとなって

いない限り)、われわれの詩的想像力を規制

し、詩表現の自由を拘束する。われわれの感

受性や想像力は観念によって裏切られ、とど

のつまり作品は観念先行のひからびたものに

なる。そうした作品の内実が、うわべの気負

いやことごとしさとはうらはらな低俗な感情

によって蝕ばまれていることを私は知ってい

い。自己検証や、依拠する思想・観念に対す

る厳しい批評がなく、造形に対する厳格さが

みられない。往々にして自己放棄さえが見ら

れる。

 米田氏の詩はそれらと無縁である。それら

に無縁であることによって、自分の思想を手

の中にしっかりとにぎっていると言うことが

できる。

 右に引用した以外の作品では、「旅をする

とは」「海辺にて」「貝がらと人」「鴎」「フ

ィナーレ」等を私は評価する。ただし私は冒

頭に引用した「天下る垂線を がっちりと受

けとめる」という詩句中の「がっちりと」と

いう表現などは評価することができない。ま

た例えば次のような捉え方や表現をも評価す

ることができない。「BOD……PH……の

叫びも/スマートな犯人たちの パトロール

も むなしく/変り果てた川は/拒絶の渦を

 まきおこしながら/非情なサイクルを/た

だ 滔滔と流れてゆくばかり」(現代の川」

部分)。つまりここでは米田氏は自分を踏み

はずし、「スマートな犯人」とか「拒絶の渦」

とか「非情なサイクル」とかいった安易な表

現に自己をあずけてしまっているからであ

る。米田氏はやはり「いつまでも/祖国をす

てない人々のように」「母なる海を 去ろう

としない」(「鴎」)鴎たち同様、自己を去らず

自己の資格を大事にはぐくみ、そのことによ

って「一そうきびしく/一そう力強く」「未

来を目指し」て行くべきだろう。より新しい

成果を私は待つ。












以下、その5へ続きます。



米田和夫詩集 緒方利雄詩集   (その3) [評論 等]





 ……やがて ぼくが 地表の土に 還ったときに ぼく自身の 変身である 詩や ものたち は

 ふたたび ひそかに 語りはじめるのだ

 愛について……

 真理について……

 地球について……

 リーザ

 いま ぼくが 全身で 感じているのは

 母なる地球からの 温かい呼びかけの声

 幾億年も前の

 懐かしい子守歌

 いま ぼくの耳底に 幻聴のように ひびいてくるのは

 すでに地表の土に還った 父や母が

 遠い日 ぼくを探して呼んでいた いたわりの声

 いま ぼくの奥底を音立てて 流れてゆくのは

 少年の日 いくたびか たたずんだ 山あいの 玉のせせらぎ

 遠い銀河の流れ のように ぼくを メルヘンの世界へと運ぶ

 いま ぼくの網膜に ぼんやりと 傾むきながら 映っているのは

 北半球の一部……ぼくの生れたおとぎ話の マ半島

 ぼくの胸をえぐるのは その傍で火を噴いている ベトナムのこと



                            (部分)



 米田氏の、愛や真理や地球について或いは

ベトナムについての発言は、氏の頭の中に既

成された思想や観念から描き出されてきたも

のではない。「パラボラアンテナのように、

うつりゆくものを すべて感受」する態度、

つまりは物の本質をくもりのない魂によって

捉えようとする、本来的な詩人の態度から導

き出されてきたものである。みずみずしい感

受性と素裸の魂をよりどころとして、すべて

のものを真実の姿において捉えようとする生

き方が、彼にベトナムを考えさせ、彼の眼を

政治にむけさせたのであり、ひいてはそれら

に対する彼の対し方をユニークなものにした

のである。











以下、その4に続きます。



米田和夫詩集 緒方利雄詩集   (その2) [評論 等]





 米田和夫詩集『流れる時のなかで』

 この詩集を私はもっと早くに論評すべきで

あった。実はその用意もしたのであったが、

前から予定していた詩書に紙幅を費して果せ

ずにいた。私は気がかりであった。



   ポプラ



ポプラは、いつも 天空を突き刺している

冷たく鋭い針としてではなく

ひとり抜け出る ためらい と

優しく柔軟なバネを秘めながら……

予言者の思慮深さで 遠い地平を みはるかし

パラボナアンテナのように うつりゆくものを すべて感受する

ポプラは また 悔いのない垂線を 地表に おろす

奥深い球心のありかを すなおに暗示しながら……

根は ひろびろと 大地を這い

天下る垂線を がっちりと受けとめる

いつの頃からか ポプラたちは この構えを このポーズを

崩そうとしない 天と地の あわいに立ち

これが唯一の生き方である……と確信しているかのように





 これが唯一の生き方である、と確信して、

天と地のあわいに立っているポプラの在り方

は、この詩人自身の世界に対する対し方を明

らかにしているように思われる。米田氏は一

種広大な宇宙感覚と鋭敏な感受性を持ち合わ

せている一方、われわれがよって立っている

ところの「地表」にむけて「垂絶」をおろ

し、「奥深い球心のありか(・・・)」をさぐろうとす

る現実感をも備えている。「天」に眼をむけ

ることによって「地」をおろそかにし、「地」

を凝視することによって「天」をふりかえら

ない、ということがない。つづめて言えば、

豊潤なポエジイと潤沢なイメージを駆使しつ

つ、広大な宇宙をうたい、時の流れとその中

で生成し消滅する人間の愛や実存をうたい、

更には、現実上或いは社会上の諸々の事柄に

対する批判を展開し、われわれ人間同士の連

帯を呼びかけている点に、この詩集の大きな

特徴があると言える。これらの特徴を最もよ

く具現化した作品が、冒頭の「ヴオストーク

Kより リーザへ」と題する長詩である。お

そらくこの作品は、宇宙船から地球を俯瞰

し、地球を一個の惑星として眺めることの出

来る地点から、地球上に存在する様々の国や

そこに住む人間について考える、といった発

想にもとづいて書かれたものにちがいない。

こういう発想それ自体がすでにユニークなの

だが、次のような詩句があって、彼のユニー

クさをうかがい知る具体的な手だてとなる。











以下、その3へ続きます。



米田和夫詩集 緒方利雄詩集   (その1) [評論 等]





 米田和夫詩集 緒方利雄詩集



 一定の紙幅の中で詩書を論評するには、お

よそ二つの方法があるだろう。一つは、数多

くの詩書を能う限り幅広くとり上げる方法で

あるが、この場合には、個々の詩書に関する

物言いはいきおい概括的にならざるを得な

い。他の一つは、評者が自分の判断に基づい

て選択し、対象とする詩書をしぼった上でで

きるだけ詳しく論評する方法である。私は後

者の方法に従うことにしている。そうするに

ついては私なりの考えがあってのことなのだ

が、しかし論評の対象としなかった数多くの

詩書を思うと私の心は痛む。せめて私信の形

ででも感想を述べるのが至当と思いながら、

それも実行していない。送ってもらった詩書

をできるだけ丹念に読むことが、私に出来得

る最小限の返礼である。この場をかりて月々

詩書を送ってくれる人々に私は感謝する。











以下、その2へ続きます。

 「詩学」 1969(S44)年 6月号より




タグ:詩書 丹念 私信

詩集『幻影哀歌』など   (その8) [評論 等]





 決して歌ったことのない小鳥が

 煙になって

 逃げた

 化粧水のつめたい朝

 消えてゆくものは歌わなくても

 美しい



            <朝の底で>



 どこにもいないわたしを

 探せば探すほど

 どこにもいないわたしは

 疲れすぎていなくなる



             <誰もいない海辺で>



 『死』がわたしのことを

 必死になって考えている時

 『生』が空の深みから

 糸を垂れて

 黙って釣りをしていたりする



             <兎が仕組んだ罠>



 きみとあたしの周りは

 きみとあたしが知らない秘密でいっぱい

 だけど この黙っている林檎の中で

 ナイフが光っているのを

 ふたりは知っている

 この秘密だけ 誰も知らない



                 <人生はセンタク>



 このような新鮮な表現が、詩集のそこここ

にみられ、これらの詩句は詩を読む楽しさを

私たちに味わわせてくれる。しかしこれらの

詩句は詩全体の中から独立したもののように

浮び上ってきわだち、単独に生きているよう

な点がある。仮に今後これらの詩句の持つ新

鮮さが色褪せたとしたならば、日登氏の手元

に残るものは何だろうか。「不安」「絶望」「死」

「不在」「無価値な空間」「無意味な価値」「不

毛」「不可能」「形而上学の遊び」といったよ

うな言葉がそこここに使われ、詩句としての

生命力を得ている。しかしこれらは、極言す

れば日登氏の感覚やイメージを表現するため

のいわば表現上の技法として生かされている

のであって、「不安」なり「絶望」なり「死」

なり「形而上学」的世界なりの、日登氏に於

ける内実をきりひらき呈示するものとはなっ

ていない。豊かな感性を創りはぐくむところ

の内的世界の深化を通して感性の豊かさ柔軟

さを更にどう発展させていくかが(<朝の

底で><兎が仕組んだ罠><ブックエンドご

っこ>等はそのことに成功した作品だ)これ

からの日登氏の課題であるだろう。私は、日

登氏がこぼれた水の新鮮さをいつまでも持ち

つづけ、その底に世界の深さを湛えていくよ

うにと願うものである。











 「詩学」 1969(S44)年 5月号より







詩集『幻影哀歌』など   (その7) [評論 等]





    絵画



 朝は冷たい苺を

 わたしの中に落した

 紫色の立ちくらみをしながら

 テーブルに沈みこんだレモンと

 お皿に埋まっている魚のことを思う



 おお 優しさはなんと重いのだろう

 このレモンや魚や

 そしてまた足元に横たわっている眩暈など

 それらのための絵具の匂いは

 少しも腐敗していない
 
 きみのキャンバスが暗ければ暗いほど

 その絵の中にわたしがはっきりと映る



 朝の苺よ

 冷たいままで

 わたしの中に残りなさい



 

 この作品は日登氏の詩世界を最もよく表わ

しているものの一つである。この詩人の感受

性の豊かさと、ポエジイの澄明さ新鮮さ優し

さといったものが充分に感じとれる。しかし

同時に、美しさや優しさの底にひそむ一種の

脆さやあぶなさをも予感させる。私がここで

言う脆さ・あぶなさとは、「朝の苺」が「冷

いままで」いつまで日登氏の「中に残り」つ

ずけるだろうかということにかかわって出て

くる危惧である。現在日登氏は柔軟な感受性

を持っている。そして日登氏の持つ柔軟さが

世界を自分の素肌でじかに捉え、特定の観念

の限定を受けないことによって得られたもの

であることは前述した。(特定の観念の限定

を受けずに得られたものこそが、実は最も明

析にその詩人の観念世界を表わすものである

ということを承知した上で私は言う)その点

に日登氏独自の美点もあるのだが、その美点

は同時に、感受性の柔軟さが褪せると共に凋

落してしまいかねない脆さ・あぶなさをも孕

んでいる。美には本来そういうあぶなさに遊

ぶ性質があるわけであり、脆さや失せ易さと

の微妙な均衡の上に、かろうじて保たれるも

のだが、日登氏の場合、その妙なる均衡をど

こまで保っていけるか、正直に言ってこの詩

集だけでは何とも言えないし、私には予測す

ることができない。











以下、その8へ続きます。



タグ: 絵画 日登

詩集『幻影哀歌』など   (その6) [評論 等]





 日登氏は自分の感受性をたよりにして、自

己の内に流れこんでくるすべてのものを濾過

し、現像液にひたしてゆすぎ出し定着させて

いる。選別し判別するいとまもなく、魂が捉

えた一切のものを自分の流儀でうたっている

ようである。自己の世界と外界とのけじめが

なく、両者はわかちがたく統一され、共に交

感しあっており、したがって外界の事象をう

たうことがそのまま自己をうたうことにつな

がり、自己をうたうことがそのまま外界の事

象をうたうことになる、という具合である。

 「女の体はガラスのようで/家々のむこう

の消えかかった夕焼けが/彼女の血ででもあ

るかのように滲んでいる」<恋の終り>

 あたかもこの詩句は、右にみた日登氏の詩

世界の特徴を端的に語っているようである。

そして内の世界と外の世界との絶えざる交感

と交流が、日登氏の詩に透明さと翳りを与え

ていると共に、言うに言われぬ優しさと、優

しさの底にひそむ一種の憂愁や不在感をも与

えている。











以下、その7へ続きます。



詩集『幻影哀歌』など   (その5) [評論 等]





 日登敬子『正しく泣けない』(地球社刊)四

周の世界に眼をひらき、手さぐりしながら自

分の「生」を確認しはじめた者の持つ精神の

柔軟さと、新鮮さがこの詩集には見られる。

自分の素肌でじかに捉えられた世界は、特定

の観念によって限定されることなく、感受さ

れたままの透明な姿に於て定着されている。

自分や自分をとりまく世界の奥深さについて

そして私たちの傍に常に在り続ける万象の本

質について、改めて思いをめぐらし、その思

いを詩という手だてで表現しようと試みはじ

めた当初、詩人の誰もが持ったであろう柔軟

な感受性と精神が、この詩集にはこぼれた水

のような新鮮さで湛えられている。こぼれた

水はいまだ方円いずれの器にも従わず、澄ん

だ水溜りとなって夏の日ざしや木々を映し、

のぞきこむ人の願を店の方に映し、時に自分

の血や不在をのぞかせながら、不安と期待に

かすかにふるえているようである。













以下、その6へ続きます。






この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。